sub rosa
作者:谷中秋霞

 涼しげな朝の光が、グラスの氷の上でキラキラとゆらめいていた初夏のこと。街角のカフェにふたりは並んで座っていた。ローザンベル国、スフェア市。ここは“薔薇の鐘の鳴り響く国”と呼ばれ、世界各地から芸術家が集まる大国として有名な国である。そして、とりわけスフェア市は、音楽の都として古くから栄えてきた街なのである。その街角の小さなカフェの朝の8時、開店直後のまだお客も少ないこの時間に、ふたりはいつも現れる。
 青いワンピースをふわりとなびかせ、白いリボンで髪をひとつに結いあげた娘の名は、エリシア。蜂蜜で甘みをつけたアイスカフェオレを両手で包み、相手の話に耳を傾けてうなずいている。
対して、ダークスーツを身にまとい、落ち着いた雰囲気の青年の名はバリトン・ヴォルフガング。ブラックアイスコーヒーを脇に置き、その手は本のページを指さしながら、何やら話しかけている。
 一冊の本を覗き込み、顔を近づけているこのふたりの男女は、はたから見ればデートでもしているかのよう。しかし、実のところはどうであろうか。

 「今日は、ピアノの音が鳴る原理について、説明するね。まずは昨日の復習からいこうか。この写真を見て…。」
 彼の説明に耳を傾けているエリシアは、スフェア市立音楽院の最終学年。音楽院は、この国では中学・高等学校に相当する教育機関である。彼女はピアノを専攻し、国中を飛び回って積極的に音楽活動を行なっている。そんな彼女は、ついひと月前から、楽器の設計・制作技術やコンサートホールの音響などについて、音楽院の外で学び始めたのであった。エリシアのこの知的好奇心には、ある動機がある。
 彼女は、いかに良い音色を響かせるか、観客一人ひとりに語りかけることができるかについて、これまでの数々の舞台で絶えず挑戦を続けてきた。しかし、演奏技術の反復練習だけでは、頭の中で思い描いている表現になかなか到達できずにいた。自身の演奏を聴くたびに、その音色に納得できないでいる状態が続き、いつのまにかエリシアは深いスランプに陥ってしまったのである。
 己の思い描いているモノを奏でたい、必死の思いで過ごす日々のなかで浮かび上がってきた素朴な疑問が、どのようなしくみで楽器の音は鳴り、響くのであろうか、ということであった。
 そこで、彼女は音楽院でのピアノのレッスンの合間を縫って、スフェア市立大学の授業にもぐりこむようになった。物理学の知識の乏しさに苦戦しながら聴講していた楽器設計学の講義に、教授と積極的にディスカッションを重ねる聡明な青年がいた。それが、バリトン・ヴォルフガングである。理解しきれなかった授業内容を、おそるおそる彼に質問したのが1週間前。それ以来、楽器設計学と音響建築学を専門にしている彼は、お互いの学校が始まる前の早朝に、こうしてカフェでエリシアに補講をしてくれている。

「今日はここまでにしよう。何かわからなかったところはある?」
「ありがとう。すごくわかりやすかった。ところで今、何時?」
 バリトンが腕時計をすっと差し出し、エリシアがそれを覗き込む。
「うん。あと15分で9時。今日はずいぶん早く終わったね。」
 銀色の腕時計に目を落としながら、バリトンが静かに言う。
「ほんとうだ。ねえ、前から思っていたのだけど…素敵な時計ね。」
 エリシアがにこりと微笑み、思いがけない言葉に驚いて顔を挙げたバリトンと、視線がぱちりと合う。
「…ああ、大学入学祝いに、父親に買ってもらった。」
「へぇ、そうなんだ。ねえ、バリトンのお父様って、どんな方なの?」
「それはね…。」
 二人の時が、鼓動を始めた。これは、今から遡ること16年前。初夏の朝の、秘密のお話。


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