ある昔話。

識神――。
其は此の世の善悪を見張る者なり。其は人の形をして人と異なり、その姿変幻自在にして、呪、妖の術を操るなり。
人でありながら人に非ず、其れを知る人や唯識者のみ。

扨、今は遥か昔、場所は大和が中央、京。季節は文月、秋の始まりである。この時期、清涼殿にて京の役人の任命式が行われる為に上達部である中納言、橘常葉も例にも漏れず忙しい。その日取りを決めるために、常葉は帝の秘書的役割を果たしている蔵人頭の清野冬嗣と共に陰陽寮へとやってきていた。
二人とも特に話をせずにやってきたが、陰陽寮の前で今まで口を開かなかった冬嗣が口を開いた。
「そういえば常葉殿はあの噂をご存知か?」
「あの噂?あぁ、藤原黎明殿のことか。それならば知っている」
常葉は静かに言葉を返した。藤原黎明は右大臣。彼が若くしてその位に上がれたのは家柄の良さだけである。はっきり言って彼については聞こえのいい話などなく、宴の席で酔って帝に対し失礼な態度をとったりしていたのだとか。
この右大臣藤原黎明、実はつい数日前に死んでしまったのである。若い黎明は特に病気に罹っていたわけでもなかった。表立っては話さないものの、その話は貴族達の間で密やかに話題となっていた。
「何でも狐狸妖怪の類や御霊の祟りではなく、識神の仕業だそうな」
「その識神とやら、一体何なのでございましょうな」
 冬嗣が首を傾げると、常葉も不思議そうに呟く。
「わからぬな。陰陽頭の理映も何か知らぬだろうか」
「司召の日取りを相談しに来られたのもそれが口実ですかな」
理映がゆらりと姿を現した。冬嗣が驚く。
「理映」
「ここではなんだ。さぁ、入られるがよい」
 理映について常葉と冬嗣が部屋に入る。
「そろそろ来られると思いましてな。先程占っておいた。司召の日取りは五日後がよろしいかと」
 陰陽寮では占いや天文、暦の編纂などが行われるのだ。今回はその日取りに相応しい日を占ってもらいにきたのである。常葉は五日後、と小さく繰り返して頷いた。
「……それで他に聞きたいことがおありになるようだが」
 理映が声の調子を落とした。公務に関係なく個人の好奇心からのことだったので、二人は少し決まり悪そうにしていたが、常葉がしばらくして静かに口を開いた。
「識神に関してそなたなら何か知っておるかと思ってな」
「しきがみ……それはどういう字を書きますかな」
「知識の識、言の字を使う方だ」
「術式の字を使う式神ならば私らが使役いたす者共のことですが……その識神は存じませぬな」
「世に悪い者ではないだろうか。占ってはいただけまいか」
 冬嗣がそう訊ねると、理映は少し考えてから一日いただきたいと応えた。
「では明日に」
 二人はそう言って陰陽寮を出た。冬嗣は帝に日取りを伝える為、常葉は他の上達部に日を告げる為に別れた。常葉が渡殿から見た空は何事もないかのように青く遠く澄んでいた。

 次の日何かしら口実をつけて再び陰陽寮へやってくると、理映が二人を待ち構えていた。遠目に見ても彼の表情は暗く、重い。
「どうされた」
 常葉が訊くと、理映はやや躊躇い気味に口を開く。
「あまり宜しくない報せになりましたな。識神とは、此の世の善悪を見極める者。其は人の形をして人と異なり、その姿変幻自在にして、呪、妖の術を操る。人でありながら人に非ざる者だと」
「それは」
 どういうことかと常葉が訊く前に理映が言った。
「大きな声では言えませぬが黎明殿は牛車の牛を切捨てなさったとか……その話が真ならば、その識神とやらは黎明殿の殺生を良しとしなかった。そういうことになりますな」
それと、と理映が付け加える。
「近いうちに悪しきことが起こりまする。識神が善悪を見極めるというのなら何か道を外れることが明らかになるということ。帝も、そしてお二方もまだ若い。ゆめゆめ道を外れなさるな」
 理映の真剣な表情に、常葉と冬嗣は頷いた。この二人、この後一つの怪異を見ることになるのだが、この時はただただ不安を抱えてそれが起こるのを待っていることしかできなかったのである。

 司召も無事に終わって数ヶ月経った日のことである。
 朝早く常葉が自宅から出ると、辺りには霞が立ち込めていた。完全に周囲が見えないわけではないが、視界は悪い。すぅ、と息を吸い込めば冷たい澄んだ空気が肺に流れ込んでくる。物音が吸い込まれていってしまいそうな空気に常葉は何か身の引き締まる思いがした。
 さくさくさく。
 自分以外が大地を踏む音。何かが駆け足か早足で動いているのが聞こえる。
 さくさくさくさくっ。
 薄く白い霧の向こうに橙色の何かがぼんやりと揺れ動いている。
(松明、か?)
 若さ故の好奇心から、常葉は揺れ動く明かりを追う。察されないようにそっと足音を忍ばせて常葉は小走りになった。三度道を曲がったところで、明かりがふっと消え、やがて足音もしなくなる。
 (今のは……何だったというのか。それに、ここはどこなのだ)
 霧の狭間から見えた二本並んだ下がり松に、常葉は随分と遠くまで来ていることを教えられて常葉は道を引き返す。
(そろそろ内裏へ参らねば)
 焦り急ぎながら内裏へやってくると、騒ぎが起こっていた。大勢の人々が右往左往している。
「どうなされたのだ」
 その中に蔵人頭の冬嗣を見つけ、常葉は近寄った。
「それが、とある下級官吏の住まいが火付けにあいまして。何者の仕業なのかはわかっておりませぬ。あのことを帝にお伝え申し上げて数ヶ月、幾日か前に嫌な雲が出ていましたのでもしやとは思いましたが、このようなことになるとは」
 その者の名を訊くと、横領していると噂の官吏であった。実際に横領をしていたが為に罰が当たってしまったのかもしれない。記憶を辿れば、その官吏の住まいは先程行った二本の下がり松の近くにあったことを常葉は思い出した。
「よもや本当に識神とやらの仕業なのか」
 理映の読みは見事に当たったのであった。

 「迷惑をおかけしたな、理映殿」
陰陽寮に穏やかな声が一つ。柔らかなその声は冷たい空気にゆるりととけ、発散した。
「いえ。これも世の調和を保つそなたら識神とやらの仕事。致し方のないこと」
 応える理映の前にいるのは貴族でなく、平民の服を着た年齢を感じさせない男。その後ろには同じく貴族とは違う粗末な服を身につけた少年が控えている。
「それに、多くの貴族には貴族でない者達は見えていない。常葉のように気付く者もたまにおるが」
 見えてない、それは「貴族でなければ人ではない」という認識をしているということだ。
「人でありながら人に非ず。故に我らにできる仕事」
 男が静かに言った。
「そしてそれを暗示し告げるのは陰陽師ということになりますな」
 識神の動く前に陰陽師達は占いにより警告をする。だから理映は知っていた。
 
彼の者達は世間の善悪を見極める者。京に遥か古よりある、政には決して関わらず、京に起こる全てのことを知り、京の調和を保つことを任された一族。その存在は隠され、唯陰陽師達のみが知っていた。貴族の持たぬ数多の知識を持ち、体術などに長けたその一族を世は識神と呼んだ、とか。
                                       <終> 




『黒猫亭』の管理人、宵知さんによる作品。
1300を踏んだ為、「識から連想する小説を」とこちらからリクエストをさせていただいたものです。
実は『黒猫亭』で公開される数日前に戴いていたのですが、様々な要因でHPに載せるのが遅くなりました。すみません。

…いいなぁ、陰陽師。
自分で書くことはないけれど(笑)。

塔夜さん、ありがとうございました。




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