第1話 最後の晩餐



 壁際に立つイライザは、手に持ったワイングラスをゆらゆらと揺らしながら、足元のふかふかとした柔らかい感触を確かめていた。
 分厚い赤のカーテンはぴたりと閉じられて沈黙を保ち、細かなレリーフを施された白い柱が厳かに立つ。他人行儀な光を放つ豪奢なシャンデリアの下には、余所余所しく白いクロスがかけられた背の高い丸テーブルが並ぶ。ドレスアップした人々の談笑はどこか空虚に響いた。
 それはそれは、豪華な立食パーティーだった。イライザに優しいのは足元の柔らかく毛足の長い赤絨毯くらいだったとしても、用意された品々の質の良さは否定できない。
 それでも正直に言えば、イライザはもう少し明るい会場の方が好みだった。もしくはソファのある会場。先ほどからなんとなく足踏みしているのは、絨毯の柔らかさに感動したのもあるが、それ以上に慣れないハイヒールで足が痛いからだ。

 ヨコハマ港を見下ろしてそびえ立つ高層マンション内に、海底科学都市の関係者たちは部屋をあてがわれていた。その最上階で今日から開催されるのが、海底科学都市のオープニングセレモニーである。移住に向けての最終確認を無事に終えた科学都市は今、海の底で静かに移住者を待っている。そして昨日、世界各国を回って移住者を集めた船がようやく到着した。オープニングセレモニーと称されたこのパーティーで移住者たちは、地上で暮らす最後の数日間を飲んで騒いで過ごすのだ。
 残念ながらイライザには知り合いのいないパーティーに参加する趣味はない。実際、最初はすっぽかして科学都市の自室に引きこもっていようと思っていた。だが、彼女が師と仰ぐ男がパーティー中はエスコートしてくれる手筈となった。その男は少し離れたテーブルで、同じく東洋出身の技術者と談笑している。先程ちらりとイライザに視線を向けたから、彼女を待たせていることは彼も分かっているはずだった。イライザだって、いかに茶番であろうとも、パーティー中の会話を邪魔するほど無粋ではない。時にそれは重要な商談交渉であるからだ。だから待つのは構わない。けれど足を痛めつけているハイヒールを脱ぎ捨てて会場を後にする案は、イライザに魅惑的な微笑みを向けている。
 せめて手元の一杯は空にしようと、イライザはグラスを傾ける。天井に描かれた天使たちのあどけない笑顔がぐにゃりと歪んだ気がして、彼女は顔をしかめた。
「酔いでもしましたか、レディ」
「そうね。白ワインをもう一杯いただけたら治るわ」
 笑いを含んだ声に視線をくれることもなくイライザが返せば、すかさず「どうぞ」と淡いレモングリーン色をした液体の入ったワイングラスを差し出された。
 元々イライザが持っていたグラスはまだ空になっていない。大人しく受け取ったグラスを左手に、右手のグラスの中身を彼女は一息に呷る。空になったそれを手近なテーブルに置いてようやく彼に向き直れば、彼は面白いものを見たと言わんばかりに腹を抱えて笑っていた。
 男は見慣れたスマートさでワイングラスを手にしていたが、服装はいつもと違い、袖や裾がひらひらしている。もしかするとそれは、彼の出身地である東洋の伝統的な服なのかもしれないとイライザは思った。しかし男が見慣れない服装をしていることはイライザにとって衝撃だ。彼女が知る限り、彼が故郷について語ったことは一度もなく、誰も移民だとは疑わないほど西洋の文化に馴染んでいるからだ。

「ヒョーガはいつも楽しそうで羨ましいわ。毎日を楽しく過ごす秘訣を教えてくださらない?」
「楽しい友人を持つことだな」
 上げられた黒い瞳が、やはり楽しげな光を湛えている。ハイヒールのせいで若干普段と目線の高さが違ったし、見慣れない服装にも違和感があったが、それ以外はいつもの彼のようだった。
 ヒョーガ・モリマサ。化学界では有名な男だ。彼の深い知識と、どんな性質を持った物質でも生み出してしまうその底知れない手腕から、「現代の錬金術師」との異名で呼ぶ者も多い。東洋人特有の幼い相貌をしているが、ふとした瞬間に彼が見せる態度や表情が、見た目通りの年齢でないことを如実に物語っていた。
「ヒョーガ、今日はハロウィンパーティーではなかったと思うんだけれど」
「失敬な。ハロウィンパーティーだったら君には魔女の帽子をプレゼントしている」
「私、魔女よりもキャットウーマンの方が好きだわ」
「妖精さんじゃなくて安心した。さぁ、行こう」
 大きく開かれた会場からの出口にと誘われ、イライザは首を傾げた。
 出口と反対側に設けられた簡易舞台では、スーツに身を固めた人々が忙しなく歩き回り、マイクやスクリーンの最終調整をしている。今からパーティーが本格開始するのは明らかだというのに、この男は一体何を考えているのか。ヒョーガと行動を共にするようになって数年が経つが、イライザには未だに彼の思考が読めなかった。
「パーティーに参加するんじゃなかったの? せっかく盛装しているのに」
「盛装させられた、の間違いだろう?」
 ひょいと肩を竦めて返された言葉に、イライザは思わず納得した。
 科学者が公的機関から資金援助を受けて各々の研究に勤しんだのはだいぶ昔の話。大衆から資金を集めるクラウドファンディング形式が主流だったのは、少し昔の話。今ではパトロンがつくのが普通で、公的支援もしくは一般大衆から資金援助を受けていた上の世代は「どこまで後退するのか」と大いに嘆き悲しんだ。
 イライザは科学研究に公的資金が投入されていた時代を知らない。聞く話によれば、公的資金とは熾烈な競争で勝ち取るものだったらしい。提案された研究が公的に役立つことと、必ず成果が出されるという確約がなければ資金提供はされなかったそうだ。クラウドファンディングは今でもたまに行われることがあるらしいが、あれは人気投票の様相が強い。ありがたくも良いパトロンに恵まれたイライザは興味の赴くままマイペースに研究を進める日々を過ごしているから、研究競争や人気争いなど想像もつかなかった。何事も競争して進めるようなものではない。
 研究内容に口出しされないとはいえ、パトロンの要求は絶対だ。お陰でイライザも、親元から離れたときに決別したドレスやらハイヒールやらなどというもので今日は着飾ることになった。そんな服飾は手持ちにないと断るつもりだったのに、そこはさすがパトロンというべきか、一式手渡されてしまった。
 ヒョーガは朗らかに言葉を続ける。
「どうせスピーチの内容は、この計画は素晴らしい、実現させた素晴らしい技術者たちに感謝を、そして出来上がった素晴らしい科学都市で素晴らしい生活を、とかその辺りだろう? 今更あらためて挨拶するような人もいないね」
「それもそうね」
 この場にいるということは、科学都市に移住するということだ。ならば狭い科学都市の中で今後顔を合わせる機会など、嫌というほどあるだろう。更に言えば、科学都市に移住するということは、経済活動とは無縁になるということだ。都市の中ではあらゆるリソースを循環させていかなければならないから、都市内のありとあらゆる物質は全てが大切な共有財産だ。都市に移住した全ての人に対して安全な衣食住が平等に提供される代わりに、金を積んだところで何一つとして専有することはできない。
 平たく言えば、パーティーや会合などの場で腹を探り合う交渉を繰り返し自分自身を売り込んでいく必要性から、イライザやヒョーガは解放されるのだ。同時に今までのような奔放な研究もできなくなるが、そこには目をつぶろう。
「さあ、エスコートしますよ、お嬢様」
「そうね。お願いするわ」
 にこりと微笑んだヒョーガは一礼するとうやうやしくイライザの手を取る。
 「現代の錬金術師」と呼ばれる彼にイライザが贈る異名はこれ「現代の道化師」だ。




科学技術に咲いた花
月影草