困ったら隔壁を閉ざしてしまえばいいというのは簡単であるし、イライザたちの責任でもないのだが、西エリアにいる全員が圧死する可能性を放置しておくのはさすがに寝覚めが悪い。とはいえ、西エリアの居住者を移せるような空き部屋が東エリアにあるわけでもなく、大掛かりな補強工事もできない。できることといえばせいぜい、現状を確かめて崩落までの日数計算をする程度だ。
「あー、確かに窓面積広いな」
「間隔も狭そうね……せめて比率をそのままにしておいてくれればよかったんだけれど。まぁ、素材が違うのならば私たちがやった強度計算も無意味ね」
「しっかしあんた、窓のサイズと間隔が違うだなんて、よくそんな情報掴んでたな。設計図はこれが最新のだろ?」
 非番の日だからと瓶ビールを腰に三本、左手に一本携えてきたピョートルは、右手の端末に表示された設計図を示すように振る。
「移住前にね、ヒョーガが立体映像模型を見たがったのよ」
「ははぁ、本人は来ないからって、そんなもんを。ってことは、管制チームに提出された設計図と、実際に使われたのが違うってことか。あーあ、なんでそんなことしたかね」
「本人に聞いたんでしょう? 環境のためだって」
 イライザはちらりと、ピョートルのベルトにぶら下がったビールを見る。つい緑の大きな瓶に目を取られたが、よく見ればウォッカの小さな瓶も数本刺さっているように見える。彼は今日の案件をどれだけ厄介で時間がかかると思っているのか。それとも、これだけの胃痛を彼は予期してきたのか。
 正直、彼女は彼が持参したアルコールが羨ましくてたまらなかった。状況を冷静に分析すればするほど、呑まなければやっていられない。
「こんだけあからさまだと、巻尺も設計図もいらなかったな」
「一応測っていくわ。耐久計算をしようと思ってリコに声をかけてはあるの」
「リコ? おいおい、チーム・モリマサにそんな名前のメンバーはいないだろ? 人の部下を使うときには先に上司の許可を取れ」
「あら、彼は快諾してくれたわよ? これも人望かしら」
「チーム・モリマサの強かさにはさすがに負けるぜ。そーいうとこ、あんたらそっくりだよな。弟子だかなんだか知らんが、あいつから学ばなくていいもん学びやがって……しっかし耐久日数は知らない方がよくないか?」
「明日でなければいいのよ」
 深いため息と共にこぼれ落ちる言葉はもはや自棄だ。崩落しない明日がいつまでも続けばいい。
 ピョートルに巻尺の端を持たせ、イライザは隣の窓へと歩を進める。同時にぎりぎりとイライザの胃が痛み、西エリア担当建築士の顔がちらついた。環境がなんだというのだ。その環境のために自殺するのは構わないが、無理心中を許可するわけにはいかない。
「そういえば彼女、妊娠していなかった?」
「はぁ? いや……はぁ?」
 よほど動揺したのか、彼の手から巻尺が滑り落ちる。彼は慌てて手を伸ばすも、巻尺はするすると巻かれていき、かしゃんと音を立ててイライザの手中に収まった。巻尺は離してもビール瓶は落とさないあたり、さすがだ。
「いや、待て、出産予定なんて話、俺は聞いてないぞ。誰だ許可出したの」
「奇遇ね。私も聞いていないし、許可は出していないわ」
 子供が生まれるということは、都市内の人口が増えるということだ。人口が増えれば、循環炉の出力を上げなければならない。よって人口増減は地上にいた時よりも厳しく管理される。妊娠・出産は事前申告・許可制だ。ヒョーガは科学都市に来なかったが、管制室を取りまとめるチーム・モリマサの一員として、イライザが出産申請・許可を知らないだなんてありえなかった。
 更に、科学都市への移住時点ですでに予定よりも人数が多かったため、循環炉の出力も予定を超えているのが現状だ。今後メンテナンスのために部分的にでも止める必要があることを考えると、これ以上循環炉の負荷は増やせない。だから今の時点で人口が増えることは許可できない。たとえそれが、今は小さな赤ん坊で大人一人と同じカウントにならなくても、だ。
「だけどな、イライザ。あんた、何をもって彼女が妊娠してたって言うんだ? そんなに、その」
 女性の身体については言及しにくいのか、ピョートルは表現を探して口ごもる。そんな彼に再び巻尺の端を握らせ、イライザは窓の間を歩き始めた。
「彼女のお腹はまだそんなに目立っていなかった、でしょう? でも同じ女だから分かるわ——と、言いたいところだけれど、直感で思っただけだから確証はないのよね。でも妊娠が一目で分かるほどになってからじゃあ遅いのよ」
「そりゃそうだ」
 もし妊娠が事実であれば中絶してもらうことになるのか。中絶だってヒトの命を奪う行為に変わりはないし、イライザだって新しく生まれる命は育みたい。それでも、新たな命を育むために今いる住民たちを生命の危機に晒すわけにはいかない。
 今はただ、彼女が妊娠していないことを切に願うばかりだった。


 物理チームの計算結果が出たと聞き、イライザは西エリアに来ていた。日光を模した照明に燦々と照らされたカフェテリアには赤いハイビスカスが咲き乱れ、壁に映しだされた白い砂浜には穏やかな波が打ち寄せている。ざざぁ、ざざぁと波の音がBGMとして流れていた。
 そんな夏模様に似合わない据わった目でビールを呷っていたピョートルは、イライザの姿を見ると立ち上がり、不機嫌な声音で「行くぞ」と告げる。正直、帰って寝たい。心の声は、そのまま声となってこぼれ落ちた。
「帰っていいかしら?」
「これやるから付き合え」
 既にうんざりしているピョートルに押し付けられたのは、彼のポケット内で人肌温度に温まったビールだった。呑まなければやっていられないということか。
 他にも大勢いるこの場ではなにも言えないと態度で語られ、小さく息を吐く。小さな反抗として、イライザは瓶を彼に突き返した。
「私、ワインの方がいいわ」
「ビールじゃあアルコール度数が足んないか。かもな。なんか貰ってくるか?」
 ちらりと振り返って一瞥されてイライザは閉口する。イライザの胃がぎりぎりと軋んだ。

 扉が開いた途端に酒の匂いがするピョートルの私室は荒れていた。脱ぎ散らかした服が床を椅子をベッドを覆い、テーブルには使用済みのマグカップやら飲み終わったビールの瓶やらがずらりと並んでいる。すっかり埋もれていて気づかなかったが、ベッドに散らばった服の下にある膨らみは、ピョートルと共に計算していたのであろうリコだ。一体どれだけ呑まずにはいられなかったのか、顔を真っ赤にして寝こけている。
「リコは気にすんな。ちょっと呑ませすぎた」
「彼、酔ったら記憶が飛ぶタイプ?」
「さあな。飛ばなくても、一回眠ればちょっとは気持ちの整理もつくだろ」
 眠っているリコを気遣う様子もなく、ピョートルはどかりとベッドの端に座り、イライザには一脚しかない椅子を勧めた。床に散らばった服を踏みつけないように気をつけながら椅子を動かすと、彼女はピョートルに向き合って座る。
「単刀直入に言う。悪いニュースしかない」
「一番の悪いニュースはここから出られないことね」
「違いない」
 ピョートルは、ただビールを呷る。リコのいびきだけが部屋に響く。幸か不幸か、イライザにはそれ以上の言葉が不要だった。
「今とは言わないけれど、日付……日時って絞り込めるのかしら」
「今の計算だと誤差が大きいから、一ヶ月単位でブレる可能性が」
「いえ。隔壁を閉めるだけの時間が稼げればいい」
 イライザがピョートルの言葉を遮れば、彼は瓶を弄びながら宙を睨みつける。ふっと吐かれた息に、可能だとイライザは確信した。だが同時にピョートルが渋る理由も、理解しているつもりだ。
「それしか、ない、か」
 彼が設置した、ヒトを守るためにヒトを切り捨てる隔壁など、ただの備えであって欲しかった。




科学技術に咲いた花
月影草