第5話 東西の亀裂



 東エリアのカフェテリアは、独特な香りで満ちていた。イライザが見回せば、低木がピンクがかった小さな花を咲かせている。肉厚な花は、丸く固まっていた。
 隅の方でキャラメルマキアートをストローで啜れば、大きなスーツケースを押した夫婦が東から西へと歩いていく。地上に居たころは旅行などといってよく見かける光景だった。ここ、科学都市にもそんなリゾート施設があっただろうかと、イライザは都市の図面を思い起こしていた。
 不意に視界が遮られた彼女は、数度瞬く。
「これは、あなたの仕業ね?」
 確信に満ち溢れた声は、イライザに否定させない圧を伴っていた。その女は手首に巻いた端末から、書面らしきものをテーブルに映し出す。そんなものを読む義理はないだろうに、文字を出されれば反射的に読んでしまう自分が、イライザは悲しい。ざっとながら目を通せばそれは、一ヶ月ほど前にピョートルが妊娠の疑いのある女に送りつけた、出産申請書だった。一瞬ちらりと見えたメッセージの宛名はステフ。そうだ、そんな名前だった。
「えぇ、提出してくださいね。規則ですので」
 くわえたままだったストローから口を放し、イライザは感情のこもらない平板な口調で返す。見上げた先にある顔はイライザの思ったとおり、西エリアの担当建築士だ。しかし、今の今までイライザのことを空気同然に扱ってきたその彼女がなぜ今になってわざわざイライザと言葉を交わす気になったのか。イライザには怪訝な顔しかできない。
 これみよがしにため息をつくステフが左腕に抱えている空色のおくるみは、生まれたばかりの赤ん坊だろうか。頭のてっぺんが見え隠れしていた。
「規則規則って、うんざりするくらいにそればっかりなんですね、あなたは。規則って言うから子供も置いて一人でこんなところに移住したっていうのに、ここでもまた規則で縛るつもりなんですか? 個人の自由というものは、この最先端な科学都市には存在しないんですか!」
 子猫ちゃんを置いてきたのはやはりこいつかと、イライザは内心で毒を吐く。
 前回のシフト中に気になって調べたのだが、元々ステフたち家族の移住申請枠は、そして許可枠は、二人分だった。それが移住直前になって譲渡され、一枠に減っているのだ。あの当時、移住枠は大層な高値で取り引きされていたという。もし彼女が自ら子供の一枠を売り払っていたのなら、この件に関して同情の余地などない。そもそも自分一人だけで移住したのは、それこそ彼女が求めている個人の自由だ。
「他の人たちは招待されてもない人をあんなに連れこんでもお咎めなしなのに、なぜ私ばかりが責められなければならないんですか⁉ こんなのは不公平です。いい加減にしてください!」
「責め、……え?」
 予想だにしない言葉にイライザの思考は止まる。
 自分が誤解されやすいのは知っている。冷酷だとか非道だとか、幼い頃から良く言われてきたのだから今更だ。今日のこれも、ただの八ツ当たり要員として選ばれてしまったのだと薄々ながらに理解した。それでも、今回のことで「責められた」とは心外だ。
 それに、ステフは知らないのだろうが、予定外の人を連れこんだ面々が全くのお咎めなしだった訳ではない。こってりと絞った上で追加申請とし、許可を下ろしたのだ。というよりも、許可を下ろさざるを得なかった。地上に送り返そうにも、既に退路は断たれた後だったからだ。科学都市の存続が綱渡りになると知ってなお、管制室は一人でも多くのヒトを生かそうとしているのだ。
 循環炉の一つが停止した件もある。化学チームの奮闘の末、今は両機共に安定して稼働率五割を保って動作している。イライザは循環炉の再稼働から昨日までの約一ヶ月間、管制室に缶詰になって動作をモニタリングしていたし、今日は休日にしたとはいえ、いつインカムから連絡が入るのかと、まだぴりぴりしている。更に言えば、稼働率を減らして余力を作りたい点に至っては、手つかずのままだ。
「私は知っているんですよ。あなた方管制チームのルールとやらは全て金次第だって。彼らにだって一体いくら積まれたんですか? 東エリアの建築資材だって利権の絡んだ話でしょう? そうでなければ、あんな粗悪品があんな値段になる訳がありませんよね? まぁ、あなた方がいかにがめつく商売をしようがいいんです。でも私にはこの子しかない。あなた方みたいな金の亡者と一緒にしないでください」
 しんと静まり返ったカフェテリアで、彼女の独壇場が続く。誰もがイライザたち二人を横目でちらちらとうかがい、聞き耳を立てている。彼女の話以上に、ゴシップとして愉しむであろう野次馬たちの存在が気持ち悪い。
 大体、ステフの言う「良い資材」のせいで一号循環炉は停止し、危うく科学都市は壊滅するところだったのだ。それを必死に再計算し、循環炉内の化学反応プログラムを書き換え、再び安定させるまでに、どれだけ肝を冷やし、どれだけの時間と労力を費やしたと思っているのか。
 ステフが振り上げた手に、イライザは反射的に椅子をけり倒して立ち上がり、手を伸ばす。
 届かない。
 椅子が倒れる派手な音が、静寂に満ちたカフェテリアに響き渡る。
 床に叩きつけられた空色のおくるみ。女の赤いピンヒールがためらいもなくソレを踏みにじる。
 つんざくような赤ん坊の悲鳴が。
 許しを乞うような泣き声が。
 ぷつりと、途切れた。
 届かなかった手を握りしめ、イライザは呆然と床に膝をつく。今まで崩れないようにと必死になって守ってきた何かが、音を立てて崩れていく気がした。
「あら。あなたにも死を悼めるだけの人の心があったんですね。てっきり管制室のエリート様にとって人の生死だなんてただの数値なんだとばかり思っていました」
 吐き捨てると、かつかつと甲高いヒールの音を立てて女は去っていく。床に転がる己の子には見向きもしない。
 イライザは震える手で空色のおくるみを手繰り寄せる。誰かが通報したのだろう。遠くから近付いてくるサイレンの音がする。
 急速に冷めていくソレに、イライザは顔を埋める。
 循環炉が停止してからというもの、この赤ん坊の存在でずっと気を揉んでいた。循環炉の化学反応式を書き換え、正常に動作していることを確認した時、ようやくその子供が生まれることを、そしてこの科学都市で育つことを許可できると、ほっとしたものだ。だというのに、この小さな命が失われたことで循環炉に余裕ができると少なからず安堵した、そんな自分への嫌悪が募る。




科学技術に咲いた花
月影草