A Small Decision



 最初から戦況が不利であったことは分かっていた。
 だが、逃げきれるだけの力も残っていなくて。
(……いや、方法は一つだけ、残ってる)
 普段は決して使うことのない、大魔法。広範囲に影響を及ぼすその魔法は、非常に難易度が高い。
 だから、失敗すれば命はない。
 けれど、使わなければ死は確実。
 ならば――小さくても成功する確率に、賭けようではないか。
 だるい体をどうにかして動かして、地面にうずくまっていた少女は、ふらりと立ち上がる。
 数分前に張った結界は、まだ確かにそこにある。
 だが、数多の攻撃を受けて既にぼろぼろだ。すぐに、その役目を果たさなくなるだろう。
 少女の目には何も映らず、少女の耳には何も響かない。
 彼女はただ、空気中に張り巡らした意識だけで、迫りくるモノを感知していた。――重く湿気た空気は、どんな時でも少女の味方だ。
「水 組成変換 毒式」
 魔法を発動させた途端、少女の視界がぐらりと揺れる。
 少女は、唇の端を釣り上げて笑う。自分が嗤っていることさえも、彼女には分からない。
 自分の声すらも聞こえなかった彼女は、それで自分が正しく魔法を発動させたことを知ったのだ。
 魔法を制御しようと集中すればするほど、意識が霞んでいく。
 それはまるで、他人の意識が自らの中に押し入ってくるようで。
 ――自分の中に二つの意識が存在するような、自分の意識すらも他人から干渉されるような、そんな気持ち悪さにさえ、彼女は気がつかない。
 少女が感じていたことはただ一つ。このままでは魔法を、術者である彼女自身が制御しきれない、ということ。
 一度動いてしまったものを止めることが難しいように、発動してしまった術を止めることもまた、難しい。
 だが、このまま意識を手放して、術を、そして「身体」を、暴走させるわけにもいかない。
 少女は失敗した。
 この大自然の力の前に屈した。
 ――だから。
「水 組成変換 毒式」
 小さく呟きなおし、魔法の構成を少しだけ変える。
 最初、魔法は少女が張った結界の外へと向けられていた。それを、結界の内へと誘い込む。
 霞んだ視界が、一層白濁した。
 少女に平衡感覚はもはや残っておらず、自分が立っているのか倒れているのか、それすらも分からない。
 魔法によって毒へと変えられた水は、吸い込む少女の身体を蝕んでいく。
 息が詰まり、呼吸もできない。
 だが、咳き込むだけの体力も、少女には残されていなかった。
(これでいい。これで……――)

 暫くしてその場に静寂が訪れると、遠くにいるヒトの声を、「少女」は捉えた。
 気だるそうに身を起こすと、彼女は長い髪を邪魔そうに掻き上げる。手に絡んだ髪が数本、まとまって抜けた。それは先ほどの毒のせいでもあるだろう――元々色素の薄かった少女の髪は、今や真っ白になっていた。
 すべて、少女が気にした様子はない。
 立ち上がった彼女は傷口から滴り落ちる血を拭い去ることもせず、聞こえてくるヒトの声だけを頼りに歩き出す。
 殺せ。自然と相対する者を。
 殺せ。自然に牙をむく者を。
 殺せ。魔法を行使する者を。


 カンカンカンカンカン……
 街の中心に立つ塔から、甲高い鐘の音が響き渡る。それは地下シェルターへ急げ、という街の住民への合図だった。
 街の付近にたまに出る魔物は人に害をなす。魔物を街の中に入れないためにも、街の周囲は高い防壁で囲まれていた。
 ユリアーン――通称ユリは、シェルターの入り口へ走る人波の中を逆走していた。
 何をやっているのだか、と自分でも呆れてしまう。だが彼は、街を守る立場にある魔導士と口論をしていた幼なじみ――エベルの姿を目撃してしまったのだから、仕方あるまい。
 エベルが逃げ遅れたところで、問題はないだろう。ユリは彼の実力をよく知っているから言いきれる。問題なのは、この現状でも彼が簡単に引き下がるとは思えないことだ。
「エベル。何をやっているんですか」
「あぁ、ユリか。悪い、今忙しい」
「私も忙しいんだがね。分かっているのかな、エベル君」
「毎度毎度、うちのエベルがご迷惑かけているようですみません、アロイスさん」
 エベルに喧嘩を売られていた魔導士、アロイスにユリは優雅に頭を下げ、別に構わないんだがね、とアロイスが応じる。
「そういえばユリ君。君の父君はいつこちらに戻られるのかな」
「さぁ。最近音信不通で、噂話すら耳にしないもので……。すみません、いつ戻るかまでは全然見当がつかないといいますか」
「そうか。君の父君は優秀な魔法使いだから、そろそろ戻ってきて貰えると助かるんだがね。街の防衛も、なかなか人手が足りていないんだ。君も魔法を習っていたと思うが、どうかね。街の平和を守るために少し貢献してはみないかね」
「母が嫌がるんですよ、魔法の行使を。僕自身、実力が足りていないといいますか、多分大して役に立たないんじゃないかと思いますしね」
 エベル抜きで進められる会話に、彼はむっとなる。
 しかもこのテンポのよさ。わざとエベルを除け者にしようとしているようにしか思えない。
 ユリはそんなことを考えていないにしろ、アロイスの方は確信犯だ。
 ――そう、エベルは決めつけた。
「あのなーっ。忙しいとか言ってるくせに、自分から世間話始めるなーっ」
「エベル君。君は自重するという言葉を学びたまえ。私はユリ君と高尚な会話をしているんだ」
 言い返し切らずにエベルは歯噛みする。食えない奴め、と思えば思うほどにアロイスの笑みが黒く見えてくるのは、エベルの心が病んでいるからか、実際にアロイスが黒い笑みを浮かべているのか。
 ――おそらく、両者だろう。
「まぁまぁ、エベル。そう悔しがらないで。ほら、行きますよ」
「そうやってお前は俺を年下扱いするっ。俺の方が上だろ? 全く、お前って奴は……」
「風 状態固定 頭上 現在」
 エベルの文句を遮って、ユリの呪文詠唱が高らかに響き渡る。
 ユリが使った魔法は、彼の周囲の空気を今の状態で固定する。固定する度合いの調整が難しく、実践にはあまり用いられないものだ。
 アロイスは頭上を見上げてユリの魔法の出来を確認し、ほうと感心する。
 彼らの上で固定化された空気は、壁を越えて飛んできた氷の槍を通すことなく、すべて砕け散らせていた。
「お前って固定化させるの得意だよな」
「えぇ、動かすのはあなたの専門ですけどね」
「なかなかの強度だな。咄嗟の防御にしては素晴らしい」
 本業が魔導士であるアロイスからの素直な賛辞の言葉に、ありがとうございます、とユリは笑顔で言葉を返す。
「あなたも人が悪い。攻撃が来ることを分かって、あえて防御しなかったのでしょう? 僕たちの実力でも見定めようと、そういう魂胆ですか?」
「分かっていて魔法を使ったのか」
 くすくすとユリが笑い、にやりとアロイスが口元を歪める。
 敵対もしていないのに腹の探り合いをやっている二人に、付き合ってられねぇとエベルは空を見上げた。
 砕けた氷に光が反射して、キラキラと光る。
 綺麗だな、と柄でもなくエベルは思った。
「あーあ、エベル。何一人で現実逃避をしてるんですか。早く行きましょう? ここにいても邪魔になるだけでしょうし」
「だ、か、ら、俺を年下扱いするなっての。……アロイス。大丈夫なのか?」
「何がかね」
 聞きたいことなど分かっているだろうに、はっきりと言うまで答えようとしないアロイスを、エベルは睨みつける。帰ってくるのは、彼を見下したような笑顔ばかりだった。
「人手、足りてるのかって話だよ。俺が知ってる限り、魔物による攻撃が防壁を越えたことはない。……っていうことは、だ。今回の魔物相手に、全然歯が立たないだとか、そんな状況なんじゃねぇの? あんたは、ここで優雅に世間話してるけどさ」
「それは、君も前線に立ちたいと、そう捉えて構わないのかな」
「俺っていうか、せめてユリは連れてけよ。こいつ役に立つから」
 エベルの勝手な言い草に、僕はモノ扱いですかとユリは苦笑する。
「連れていくのなら、僕よりもエベルの方が適役だと思いますけどね。どうやら相手は水の使い手。かなり高度な術まで使えると思います。魔物は単体と見ました。魔法の構築に粗が目立ちますが、それはおそらく、いくつもの魔法を同時に行使しているからかと。まぁ、ざっと二桁、といったところですかね。エベルなら、相手の防御の隙をついて攻撃することも可能でしょう。ですが僕はサポートがメインですから」
 ユリの淡々とした言葉に、アロイスはにやける顔を抑えきれず、ついには笑い出していた。
 普段の固いイメージからは想像もできないくらいに笑い転げられ、ユリは戸惑ったようにエベルを見る。だが、エベルはついでと言わんばかりに大笑いしていて、ユリは苦笑するしかなかった。
「……あの、僕は何か間違えましたか」
 アロイスの笑いが多少収まったところで、彼は控えめに訊いてみる。まだ笑いの収まらないアロイスは、口許に手を当てて笑いをこらえつつ、息を整えた。
「いや、君が間違えたことは何もない。本当に君は素晴らしい。私の助手に欲しいくらいだ。便利ね、便利。確かに便利な能力を持っているよ。相手の魔法を見ただけで、それだけ分析できるとは。しかも風を操りながら水を……君は複数の元素に精通しているね? 上等だ。さて、本題に入ろう」
 突然真顔に戻った彼に、エベルとユリは無意識のうちに姿勢を正す。
「君たち二人、私と一緒に来ないかね。エベル君のご指摘通り、人手が足りていないんだ」

 防壁の上に立てば、風が吹き荒れた。
 見下ろせば、幾人もの魔導士が倒れ、残された数人が辛うじて、「魔物」の進行を食い止めている。
 破られるのは時間の問題だろう。
 「魔物」と魔導士たちとの力の差は、歴然としていた。
 そんな事実よりもユリとエベルの二人を驚かせたのは、攻撃によって起こる砂埃の合間に見えた、白く長い髪だった。
「待て待て待てっ。魔物じゃねぇのかよっ。こら、アロイス、説明しろっ」
「エベル。あれは確かに『魔物』です。どれだけ人と似たような姿をしていようと、あれは人ではない」
「ほう。ユリ君。君が言い切る、その理由を聞かせてもらおうか」
 戸惑いを隠せないユリと、白い髪の「魔物」の姿を、エベルは交互に見やる。
 ユリもしばらく「魔物」をじっと見つめていたが、やがて静かな口調で話し始めた。
「魔法の気配が……薄すぎるんですよ。さっきまで僕は、魔導士側が不利だということを疑っていました。なぜなら、魔導士側が使っている魔法の量は半端ではないし、それぞれが強い。だけれども『魔物』が行使している魔法の力はほとんど感じられない。エベル。これだけの魔法を一人で行使していたのなら、もっと……『歪み』とでもいいましょうか、があっておかしくないんですよ。だから少なくともあれは……人ではない」
 魔法を行使することは、自然を歪めること。自然を歪めようとする魔法と、同じ状態を保とうとする自然は、どうしても対立する。
 自分の意思力を以って、自然の状態を意のままに操ることが魔法なのだ。
 だから――魔法は強力になればなるほど、他の魔法使いにその行使を察知されやすくなる。
 アロイスが否定してくれないものかと、縋るようにユリは彼を見るが、彼は重々しく頷いただけだった。
 ――それは、明らかな肯定で。
「君が魔法を使うのを拒むというのなら、せめて魔法学者とかはどうかね。君のその才能、このまま埋めておくのはもったいなさすぎる」
 こんなところに来て、まだユリを勧誘しようとするアロイスに、彼は顔をしかめた。にやりと口元だけを歪めるアロイスが実際に何を考えているかなど、ユリには思い描くことすらできない。
「アロイス。ユリを勧誘するのは後にしろよ。結局、アレは何なんだ」
「エベル君。君は、君の幼なじみの言うことが信じられないのかね?」
 指摘されて、エベルはぐっと言葉につまる。
 ユリの言うことは正しいのだろう。それは彼にも分かっている。だがエベルは、言った本人であるユリ同様に、正しくないであろう可能性を信じていたかった。
「あれは彼が言う通り、魔物だ。いや、我々が魔物と呼んでいるものだ。見ての通り、元は人間さ。魔法の行使に失敗した者の、なれの果て……」
「分かった、分かったから最後まで言うなっ」
 不機嫌そうにエベルはアロイスを睨みつつ、唇を噛み締める。まだ魔法の構築も始めていないというのに、彼の手はかいた汗でじっとりと濡れていた。
「……それで、どうすんだよ、アレ。殺すのか?」
「あぁ」
 魔導士の簡潔な言葉を受けて、エベルは視線をユリに向ける。
 ユリは無表情で、頷いた。
「仕方ありません。僕らも、まだ生きていたい。それに、守りたいモノがたくさんあります。『魔物』が何を思って街を襲うのか、僕は知りませんが――ここは、通せません」
「……そう、だな」
 エベルはすっと目を細め、「魔物」の姿をその目に焼き付けるかのように見つめた。
 まだ幼さの残る、少女にすぎないその姿。
 自分にアレはヒトじゃない、と言い聞かせながら、彼は魔法の構築を始める。
「ユリ、援護を頼む」
「あの防御を崩せばいいですか?」
「そんなこと、できるのか?」
「え、できないものなんですか?」
 問いに問いで返し、ユリは首を傾げる。
「できないもんって……だってあの防御、なんでもかんでも溶かしてるぜ?」
「そうですけど……え?」
 何を言われているのかよく分からずに、ユリは困惑した表情でアロイスを見る。だがアロイスは――助けを求められていることも、なぜ助けが必要なのかも分かっているだろうに――やりなさい、と二人を促すばかりだった。
「……? いいですか、エベル。そちらの準備は」
「あぁ、いいぞ」
 考えるのは後にしよう、とユリは魔法に集中する。
「水 組成変換 解除 毒式」
「風 形式固定 真空刃」
 やってください、とユリが弱々しくも微笑みかける。
「風 高速移動 真空刃」
 空中に浮かぶ見えない刃は、エベルの呪文と共に滑り出す。
 先ほどまでどんな攻撃も受け付けなかった「魔物」の防御壁をいとも簡単に通り抜け――
「……ごめん、な」
 ――助けてやれなくて。
 エベルが小さく呟くと同時に、白い髪が紅に染まった。


「おや、今日は一人なのかね。珍しい」
「……えぇ」
 振り返らずに、ユリは自嘲気味に笑った。
「エベルは、この間のことを気に病んで……熱なんて出していますよ。似合わない」
「あれは君たちが気に病むような話ではないだろう。アレを殺れ、と言ったのは私だ。君たちは私の指示に従っただけ。……それで、ユリ君。勧誘しておいた話は考えてくれたのかな? 私は、かなり本気だったんだが」
「指示されたから仕方がないだなんて、そんなこと……言えるほどに僕らは大人じゃないです。勧誘の話も、僕なりに考えてみましたけど……」
 ふふ、と笑って、ユリはアロイスと向き直った。視線はまだ定まらず、宙を彷徨っている。
 ――まだ、彼の中で完全な答は出ていないらしかった。
「僕は……傷つけなくない。人であれ、魔物であれ……血を見るのは、ご免です。ですが僕は、誰にも傷ついてほしくない。笑いたければ笑ってください。――でもこれが、僕の本心なんですから。だから……」
 言葉を探すように、ユリは一度口を閉ざし、また開いた。
「……だから、僕は誰も傷つかない道を探したいと思います。いつか誰もが、『魔法』を使えるようになればいい。失敗を恐れずに、『魔法』を行使できるような、そんな、道――」
「やってみればいい。街の防御の方に、君みたいな優秀な人材が来ないのは残念だがね」
 アロイスは軽い口調で告げる。
「未来は、君たちのためにあるのだから。君たちが欲しい未来に向かう道を、君たちが選べばいい」





アヲノさんから、4567Hit記念のリクエスト。
お題は「魔法使いが主人公のショートストーリー」でした。
この話はアヲノさんのみ、転載可能です。



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