自由の代償




 うだるような暑さにも関わらずベストをきっちり着込んだ紳士は、坂の下に停まった荷馬車の御者台に座る男に声をかけた。
「メロンはあるかい?」
「爆弾西瓜ならありまっせ」
 御者の男はあっさりと返して、足元から黒い小玉西瓜を取り出した。導火線のような茎がぴょんと伸びたそれに紳士は苦笑し、頭を振る。
「まだ熟していないよ。二週間後に出直してもらえるかな」
「二週間! それは待ちすぎでっせ」
 ひょいと肩をすくめると、御者は受け取られることのなかったそれを足元に戻した。
「ま、旦那がそう言うんならちょっと粘ってみましょ。だけど覚えてておくんなし。伸ばせるのは一週間でもぎりぎりだね。二週間は多分持たない」
「ありがとう。覚えておくよ」
 紳士は御者に別れを告げて坂を登る。がたごとという音に振り返れば、荷馬車はすでに東へと走り始めていた。
「よりによって黒爆弾か」
 やれやれと、彼は息をつく。
 御者の言葉が正しければ、一週間内にこの街は滅びる。



「おいお前! ここの効果指定を真っ先に直せって言っただろ!? あんまし重い攻撃は弾き返すより受け止めて周囲に流す方が力の効率がいいんだよ」
「いやだってそれ、攻撃の入る角度とかも関係するんだろ? そんな複雑なの、俺組みたくないよ……エミリアなら楽勝かもしんないけどさぁ……お前だって、自分でやりたくないから言ってんだろ?」
「ぐ……い、いや、俺はお前の学習のために涙を飲んで……あれ?」
 彼らが階段を降りてきたローゼンハイム家の地下は広い。
 この街、カサローサを難攻不落とする防御結界、その基盤である魔法紋章の全てがここに描かれている。広さがあるため、他国に襲われた時にここで作戦会議をすることもある。
 まだ少年の域を出ない二人が人のいない閑散とした地下を訪れたのは、壊れかかった結界の紋章を直すためだった。
 魔法紋章は消耗品だ。それは日常使いの小さなものでも、街全体を包む大掛かりなものでも変わらない。負担のかかる部分から効果が薄れ、ほころびとなっていく。ほころびは直さなければ、そこから魔法全体が崩れていく。だからほころびは見つけ次第修正しなければならない。
 一般的に魔法紋章の修正は、発動している魔法を停めてから行われる。だが、現在進行系で街を守っている魔法紋章を停めるわけにはいかない。発動している魔法をそのままに修復するのは、技量を問われる。更に効果の追加、変更をする為に書き直すとなれば、あわよくばやらないで済ませたいと思うものだろう。
 だというのに、二人の眼前で燦然と輝く紋章には一縷のほころびもなかった。
「あれ? 場所でも間違えたか?」
「いやここだと……待て、ここ、魔力の色が違う」
 ローゼンハイムの魔法紋章は、自らの魔力を糸状にし、なにか媒体となるものに固定していくところから始める。紡ぐ魔力の色は、理由はわかっていないが、人によって異なるのだ。金、銀、赤、青、緑と単色で輝く紋章の合間に、虹色に輝く部分を見つけ、二人は顔を見合わせた。脳裏にはローゼンハイム本家・分家全ての魔法紋章師の顔が浮かんでは消えていく。しかし虹色の魔力の持ち主は誰一人として思い当たらなかった。
 一体誰が。
 凍りつく二人の背後に、軽い子供の足音が響いた。
「あの……間違っていましたか? どうしても気になって描き直したんですけど……」
 恐る恐る振り返った彼らの前には、華奢な男の子が一人、扉の影に隠れるように立っていた。

 虹色に煌めく紋章と年端も行かない男の子を前に、テオドアはこれが夢であってほしいと願った。
 聞いた話では、僅か数時間で紋章の修復を完成させているらしい。経験の少なさ故に、まとめられる紋章がばらばらに描かれていたり、同じ紋章が複数個あったりと、必ずしも一番効率的な形状にはなっていない。それでも十二分な効果を期待できそうだ。
 短時間で、発動している魔法を中断させることなく修復できる才能は稀有だ。喉から手が出るほどに欲しい。
 せめて遅咲きの才能であったのなら。
 せめてこれが、十五になる上の子であったのなら。
 今がこんな緊急事態でなかったのなら。
 この街を安全を取るのか、己が息子の安息を取るのか。虹色に輝く紋章は、憎らしいほどに美しい。
「クラウス」
「はい、父さん」
 ため息にも似た囁きにも、男の子は律儀に返事をする。そんな融通に聞きにくい四角四面な性格も、彼の将来を潰しかねない懸念材料でしか、今はない。
「良い出来だ」
「ありがとうございます」
 何と言うべきか困って思考を放棄すれば、そんな硝酸が口から勝手に飛び出した。結局自分は彼の父ではなく、一回の紋章師としてしか接することができないらしいと、自嘲に唇が歪む。
「参考までに聞くけれど、君は自分で描いたこれをどう思う?」
「反省点は多々あります。右の部分に条件付けをすれば、左下の部分と統合して、それぞれの条件下で使い回すことができました。他の部分も同じように省略で気が紋章があります。よくよく考えれば、中心部分で受けた力を、左上の紋章に流して魔力変換すればよかったですね。耐久度が上がります」
 延々と続く彼の分析は、数年かけげ基礎から学んだ門下生にだってできるかどうか危うい。
「直しますか?」
「いや、いい。ちゃんと機能しているようだから、今はこのままにしよう。その反省点は次回、ぜひとも生かしてほしいものだ」
「はい」
 こんな子供を実戦に駆り出すのか。虹色の煌めきは、幼い子供の力を欲してしまうテオドアの欲望に暗い影を落とした。
 上の子が反発しているのは、同年代の子供たちと共にその時を楽しめていないからに他ならない。その点クラウスはまだ幼く、カサローサに尽くすことが当然だと思っているのではないか。彼に街の守護紋章の修復を頼むということは、その幼さにつけこんでいるのではないか。
 しかしそれにしたって人手が足りない。守護紋章は今この瞬間にもほころんでおり、全てが崩れ去るのは時間の問題だ。
「クラウス、君はどうしたい?」
「北東の紋章、物理攻撃を受ける部分が摩耗してきています。あそこは当たり判定を結界から離した方が力を受け流しやすくなると思います。修正していいですか?」
 クラウスの提案を肯定も否定もせず、テオドアはただ繰り返す。
「君は、どうしたい?」
「僕は……」
 今この場を凌ぐためではなく、凌いだ先にある未来の話。
 淡々と返答していたクラウスもテオドアの意図を汲み取ったのか、言葉につまる。もしかするとそんな未来のことなど考えてみたこともないのかもしれないと、彼の回答をぼんやりと待ちながら思う。
「僕は、ただ……安心して暮らせるようになれば、それで……」
 おそらくクラウスが口にした初めての意思であり願いに、テオドアは腹をくくった。
 たとえ今までローゼンハイムが大事に守ってきたカサローサの街を捨てたとしても、この子の、そして子供たちの未来は守り抜いてみせる。



 最終準備を終えたテオドアは、久し振りに屋外を歩いていた。
 じりじりと肌を焦がし目を焼く太陽も、数週間地下で過ごした身体には心地よい。もしかすると、やり遂げた達成感が彼にそう感じさせるだけかもしれないが、この際それは些細なことだ。
 最後になるだろうからと街中を歩いていれば、道の真ん中でクラウスが空を見上げていた。空の何を、だなんて訊かなくても分かる。ギンギンと音が響く度に空に広がる波紋を、だ。
 あの位置で耐えているのはおそらく、三年前にクラウスが施した紋章だろう。彼の腕前はよく知っているが、それでも三年間よく耐えたものだと惚れ惚れする。
「おもしろいかい?」
「姉さんは」
 声をかければ、空を見上げたまま独り言のように呟かれる。
「姉さんはこの空に、自由を見たんでしょうか」
 ようやくテオドアを見上げた青い瞳にあるのは、純粋な疑問の色。いつ気付いたのか知る由もないが、彼は身近な裏切り者の存在に気付いていた。その裏切り者の責任を追及して楽になることもできただろうに、彼は自身にその動機を問い続けたのだろう。
 テオドアはそんなクラウスの柔らかな金髪をくしゃりと撫でた。
「あの子が自由を求めたことは知っているし、黙認もしたよ。自由とはカサローサにおいてローゼンハイムが手にすることはできないのだから。
 だが君も見ていただろう、あの子の葛藤を。あの子が望んだ自由にこれは含まれない。それだけは信じてあげなさい」
 小首を傾げたクラウスは「はい」と行儀よく頷いた。

 カサローサ陥落まで、あと一日。







登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画