初めての挫折を、今もまだ、覚えている。



雨に奏でるオルゴール



 この街に着いたのは、数日前のこと。そろそろ次の街へ旅立とうかと、今朝方話していたところだ。
 全員で買い出しに行った帰り、年少組メンバーは珍しい物で溢れかえる屋内マーケットを見たいと言い出した。スカイアとクラウスの二人だけ先に、荷物を持って宿にと帰って来たのだった。
「すまないね、運ぶのを手伝ってもらってしまって。君もマーケットを覗いてみたかったんじゃないのかい?」
「いや、この量の荷物をあんたひとりに運べって言う方が無理だろ。それに、マーケットは逃げやしない」
「逃げはしなくても、閉まりはするかもね」
 肩をすくめて返されたクラウスの言葉に、スカイアはただ苦く笑う。
 ベッドの上に、机の上に、購入したばかりの品々を広げ、二人は手分けして荷物を詰め直し始める。基本的に自分の物は自分で持つのが原則で、食料品などはほぼ均等割だ。
 途中、暑くなったスカイアは、窓を大きく開け放った。先ほどまで見えていた青空は薄く雲に覆われ、流れ込んできた風は冷たく湿気を含んでいる。
「雨になりそうだな」
「そうだね」
 窓から身を乗り出して空を見上げるスカイアに、作業の手を止めたクラウスはそう応える。同意のようにしていて、同意ではない単なる相づちに、スカイアは首を傾げてクラウスを振り返った。
 金の柔らかな髪が風に遊ばれるように揺れる。外から戻ったまま、まだ外していないサングラスの奥の瞳は細められ、流れ行く雲を視線で追っていた。
 こんな時、遠くを見つめる彼の瞳は何を映しているのだろうと、スカイアは思う。誰に語ることもない自らの過去か、二度と会うことのない、けれど懐かしい誰かか。
「……って」
「ん?」
 口の中で呟かれた言葉が聞き取れずにスカイアは聞き返す。クラウスは、空を見つめたままだった。無意識に出た、クラウスにしか意味をなさない言葉だったのかもしれない。そんなスカイアの考えに反し、クラウスは繰り返す。
「君にとって空って、何だい?」
「あぁ……」
 質問は聞き取れたが今度は意図が分からず、彼が見つめる空を、スカイアも見遣った。
 刻々と変わりゆく空は、二度と同じ表情を見せない。また、たとえ同じ空であったとしても、胸に秘めた想いによっては全く違う空のようにも見えるのだろう。
 スカイアの返事を待たず、クラウスは再度口を開く。
「空が欲しいと、せがまれたことがある」
 昔の話だよ、と彼は言葉を続けた。
「彼女の言う『空』というものが具体的に何を指すのか、当時の僕には見当もつかなかくてね。大分悩んだんだ。大分悩んだんだけど、結局答が出なくてその話は断ったんだ」
「そうか」
 手近にあった椅子を引き寄せ、スカイアは腰掛ける。頭の中ではゆっくりと、クラウスの話を反芻した。これは、単なる昔話だろうかと思いながら。
「今同じ依頼をされたら、あんたはどうする?」
「そうだね、想い人でも誘って、好きな場所で一緒に空を眺めることでも勧めるかな」
 くすりと笑い、おどけて肩をすくめ、クラウスはベッドに座った。
「白状するとね、今でも分からないんだ。『空』というものを、どうやったら所有できるのか」
「俺は、あんたの今の選択は正しいと思うけどな。空ってのは所有するもんじゃない。空ってのは、所有できないから空なんだ」
 机の上に置きっぱなしにされていたグラスを取り、引き寄せた鞄から一本の瓶を引き抜くと、スカイアは瓶の中身をグラスに注ぐ。そしてそのグラスをことりと机の上に置いて指差し言った。
「これは何だ」
「水、かな。君のことだからジンという可能性も否定はしないけれど」
「あんたの前で呑みはしないさ。あぁ、これは水だ。間違っても『海』じゃないし、『湖』でも『川』でもない。空も同じだ。所有する為に『空』を切り離したら、それはもう空じゃない。だろう?」
「そうだね」
 クラウスが短く返し、ふと会話が途切れた。
 吹き込む風は、更に強い水の香りを運んでくる。
 ちらりとクラウスは再び空を見上げ、スカイアはそんな彼の視線を追った。
「なぁ。その彼女とやらが欲しがったのは、何か特別な空だったのか?」
「さぁ、どうだったんだろうね。少なくとも僕は『空』としか言われた記憶はないけれど」
「そうか。で、あんたはそれを、今の今まで覚えてたと」
 単にふと思い出しただけかもしれないが、それにしては随分と思い入れがあるようにスカイアは思った。相手は女性だったというのだから、真っ先に男女関係を思ってしまうのも仕方のないことだろう。
 そんなスカイアの考えを察したのか、あぁ、とクラウスは苦笑する。
「そんな関係ではなかったよ。……なかったと思うよ? 彼女が意識していたかどうかまでは分からないけれど」
 彼はそこで言葉を区切った。視線を少し彷徨わせ、続ける。
「それが、初めてだったんだ。依頼を断ったのは。それまで、魔法紋章には不可能だなんてないと思っていた。どんなに大掛かりな魔法でも、基礎になる簡単な陣から始めて少しずつ複雑な術式に置き換えて行けば、時間はかかるけれどいつかは出来上がるんだ。だけどその時には、その基礎になる紋様すら思いつかなかった。だから……だから、自分の限界を見せつけられて、悔しかったんだろうね」
「だがそれは、あんたの魔法の腕が悪かった訳じゃないだろう」
「同じことだよ。確かに、それは魔法紋章の技術的な問題じゃなかったかもしれない。でもね、頼まれたものを形に出来なかったことは事実なんだ」
 呟くように返しながら、クラウスはベッドに散らばった物資の下敷きになっていたノートを引っぱり出した。彼が一体いつそれを鞄から取り出したのかスカイアは気付かなかったが、恐らくは荷物を詰め直す前だろう。
 そこには、数多もの紋章が下描きされているのをスカイアは知っている。依頼を一つ受ける度に、依頼者の希望通りの魔法が組み上がるまで、クラウスは飽きもせずに何度も描き直すのだ。
 それがどれだけ根気のいる作業なのか、それぞれの紋章にある些細な差すらも見つけられないスカイアには、見当もつかない。彼に分かることはただ、クラウスがそれだけ真摯に依頼と向き合っている、それだけだ。
 再び訪れた静寂に、クラウスがノートのページを捲る音とが響く。その内、水滴が地面を、木の葉を、窓を叩く音が混ざり始めた。
 何を思ったのか、クラウスはふと口元に笑みを浮かべ、ぱたりと閉じたノートを無造作にベッドの上に放った。そして、転がされたままになっていた果物や保存食やらを手に取り、荷造りを再開する。釣られてスカイアも、テーブルの上のリンゴを手にした。
「なぁ。あんたはどうして、雨が好きなんだ?」
 スカイアが何気なく口にした問いに、クラウスの手がぴたりと止まる。数瞬後、そこには苦い笑みが浮かべられたのは、言うまでもない。
「雨が好きなんじゃなくて、晴れが苦手なだけだよ」
「どう違うのか分からんが……何でだ?」
 無言で手に持っていた物を鞄の底に詰め込むと、クラウスは手を止め、顔を上げた。
「眩しいから、じゃ駄目かい?」
「そりゃ、俺だってあんたの体質のことは知ってるさ。というかあんた、子供時代外に出ないで過ごしただろ」
「まさか。多少は外出だってしたよ、僕だって」
「多少ってな、おい。そんなんじゃ大きくなれんぞ」
「いいよ、今でも身長は十分にあるし。君ほどに高くなるとむしろ不便そうだしね」
 テーブルの上が一通り片付くと、スカイアはクラウスの隣に移動し、彼がベッドに広げた物を今度は詰め始める。ちらりと視線を上げたクラウスが、何か言いたさそうに苦笑した。
「……いいんだよ、こっちは」
「あんたにばっかり負担をかけはしないさ」
 クラウスに荷造りを任せると、意図的にユーヒやクロバの荷物を軽く、自分の荷物を重くする。——最近になってようやく気付いたことだ。
 二人が広げた物資を全て片付け終えた頃には、雨が地を叩くテンポも大分緩やかになっていた。ふと窓の方、外ではなく窓付近の床を見たクラウスは、また苦笑する。
「大分吹き込んだようだね。モップでも借りて来ようか」
「あぁ、俺が行く。開け放してそのままにしたのは俺だからな。ついでに」
 光が射し始めた空を見上げて言う。
「あいつらの出迎えに行ってやるか。お、クラウス。来てみろよ」
「何だい?」
 窓枠に手をかけて空を眺めるスカイアの隣に、水たまりを避けてクラウスは立つ。そして同じように空を見上げ、彼はその目を細めた。
「あそこ。虹が出てるぜ」
「あぁ、本当だ」
 通り雨だったらしい——流れ行く雲の合間に、すっと七色の弧が描かれている。言葉もなく見つめていたスカイアは、「そういえば」と口を開く。
「虹ってのは、必ず太陽の反対側に出るんだとよ。だから虹ってのは、太陽に顔向けできない人の為の道標だって言う言い伝えもある」
 唐突なスカイアの言葉に、クラウスはうん? と相づちを打った。
「あんたのことも導いてくれるかもな。虹ならそんなに眩しくもないだろ」
 クラウスは一瞬目を瞬き、そうだね、と笑みを零す。
 遠くから風に乗り、元気のよい仲間たちの声が届いた。







<言い訳>

 レイさんのお誕生日おめでとうございます!
 ということでリクエストを受けて書かせていただきました、ありがとうございます。
 いただいたお題は「空」と「雨」の二つ。レイさんのキャラはスカイアアニキ。更には「あの二人の大人な雰囲気が好き」とのことで、自重もせずにあの二人=スカイアアニキとクラウスの二人で本当に突っ走った大馬鹿者です。
 しかし、あの二人の良い雰囲気を堪能していただけたのならば私も悔いはありません。私の文章力ではあの良い雰囲気の表現など無理ですか、そうですかorz
 タイトルはあれです、BGMがつくとしたのならオルゴールが良いなという個人的な希望的観測です(笑)

 スカイアアニキ、お借りしました。ありがとうございます。
 何か問題がありましたら、ご連絡ください。



登録者:夢裏徨
HP:月影草
Good Day Good Departure企画