経過と結果



「あーあ、『羽蝶』。また彼怒らせた」
「知らない」
「知らないー? あれだけ怒らせておいて? まさか」
 給湯室でたまたま出会ったのは、にやにやと笑う『覇王樹』とどこか不機嫌そうな『羽蝶』だった。あの『羽蝶』が、他人に分かる程の不機嫌さを表情に乗せているとは珍しい。そしてこの会話——『羽蝶』が故意に人を怒らせるとは思えないが、故意でなければいとも簡単に人の神経を逆撫でしてくる辺り、不器用としか言いようがない。
「『覇王樹』あのな、お前じゃねぇんだから自覚ねぇんだろ」
「何それ。まるで僕が故意に人を怒らせてるみたいじゃないか」
「違ったのか?」
「そろそろ僕も怒っていいんだよね?」
 そう言いながらも奴は楽し気に笑って俺を見上げてくる。そこに怒りの感情は見えない。むしろ「お前なんか怒る意味もない」と言わんばかりである。……いや、実際そうなんだろうが。
「んで? 『羽蝶』が誰を怒らせてきたんだって? どっちが悪いか俺が決めてやるから言ってみろ」
 ちょっと大人ぶって言ってやれば。
「……」
「え、ちょっと『空木』ってばさ、一体いつからそんなに偉くなったのさ」
 一人は完全沈黙で黙殺し、もう一人は大笑いしやがった。お前らに年上を敬うだなんて当たり前のことは望まねぇから、せめて年上のプライドを潰さねぇっていう高度な技術を見せてみろ。
 ……スキル持ってても使いそうにねぇけどな、こいつら。
「分かってるんじゃないか」
「自覚あんならなんとかしろ」
 半眼で突っ込んでやっても『覇王樹』はただ嗤うだけだ。まったくもってやってられねぇ。奴らの方がかなり幼いだけ余計に。
「『火焔樹』と話してきた」
 付き合っていられないとでも思ったのか、唐突に『羽蝶』が口を開いた。
「ん? 医学の方のあいつか」
 くくってしまえば同じ「生物」としてたまに顔を合わせることもあるが、それ以上の仲ではない。研究内容や科学の話をした記憶も、ほとんどない。
「……なんで『羽蝶』があいつ怒らせんだよ? ほんとにそれ、『覇王樹』の仕業じゃなかったのか?」
「『空木』。君が僕のことをどう思ってるのか、非常によく分かったような気がするんだけどさ。不本意にも」
 あ、やべ。何か怒らせた。目が笑わない笑顔だなんて、んな年で修得してるんじゃねぇよ。
 それは放っておいたとしても、『火焔樹』だ。『石竜』と違って『羽蝶』のことが気に入らないわけでもねぇ筈だし、『火焔樹』本人は結構温厚で丸い性格をしてた筈だ。ただ、自分の研究に対する執着は凄まじい。
 そこまでいいとして、あいつの研究内容が思い出せん。関係ねぇっちゃ関係ねぇんだが。
「うっわ。そんなこと言っちゃっていいの、『空木』? 同じ生物でしょ?」
「うっせぇ。うさんくさい統計マジック使ってる奴らと、俺たち遺伝子を一緒にすんな」
「そう、その話だ」
「は?」
 真顔で再び唐突に端的に告げる『羽蝶』に、俺は反応できなかった。
「いや待てだからどの話だ。あいつの研究内容の話か? 性格の話か? 一緒にすんなって話か? それとも……」
「僕たち性格の話には一切触れてないんだけど」
 おもしろい玩具を見つけたと言わんばかりにきらりと瞳を輝かせ、思いっきり楽しそうに笑いながら『覇王樹』がいらんところを突っ込んでくる。はいはい、俺だって言いませんでしたよ、でもお前らはどうせ俺の思考なんてお見通しなんだろ? だからわざわざ突っ込むな。
「正確にはプラシーボの話をしていた」
「プラシーボ? 偽薬効果がどうかしたのか? っつか俺の発言とあんま関係なくねぇか、それ?」
 プラシーボだなんて医科学じゃ常識の範囲だし、怒る理由も分かんねぇ。なんだ、あいつが開発した薬の効果は全てプラシーボでしたとでも『羽蝶』が証明しちまったか? あり得る。
「君もさぁ、そろそろ思い出してみない? 彼の研究内容」
「あ? 仕方ねぇだろ、他人のやってることなんざあんまし興味ねぇんだ」
「や、確かに君に他人の研究内容を把握しとけって言う方が無茶かも知れないけどさぁ」
 どういう意味だ、おいこら。そろそろ俺も怒っていいんじゃねぇのか、これ。
「彼はプラシーボの研究をしている。それが私には理解できない」
 大真面目に告げた『羽蝶』の一言で、ようやく俺は理解した。
 一般的な薬と違い、偽薬には科学的根拠がない。今の所、と一応付け加えておく。
 が、科学理論が全ての『羽蝶』には恐らく、プラシーボを研究する意図も意義も分からず、知らず知らずの内に『火焔樹』に喧嘩を売ってきてしまったのだろう。
 偽薬とはつまり、ヒトの持つ能力を「信じる」ことによって最大限に引き出せるモノだと俺は思ってる。たとえそれが科学的に証明できなかったとしても、現実に偽薬効果によって病気が治ったという人はかなりの人数居る訳で、それこそ無視できるようなものではない。
 それを科学と呼ぶか非科学と呼ぶかは人に依るところだろう——そして『羽蝶』は、非科学の烙印を押した。偽薬というものの、人を選ぶ再現性のなさは、確かに科学よりも非科学に近い。
「偽薬が効果をもたらす仕組みを研究してるって言われればまだ分かるんだけどね。生物学的な仕組みの裏付けもなしに突然『偽薬の効果を最大限に引き出す』とか言われても、ねぇ」
 相変わらずにやにやと笑いながら軽口を叩いているようにも見える『覇王樹』だが、心底不思議に思っているのはこいつも同じ何じゃないかと思う。
 『羽蝶』はただ、『覇王樹』に同意するかのように黙ったまま俺を見上げていた。
「結果論じゃあ、駄目ってことか?」
 おもわず言葉が滑り出た。『覇王樹』は小首を傾げ、『羽蝶』は無表情のまま次の言葉を待っている。
「確かに偽薬の効果は現代科学じゃ解明されてねぇ部分の方が多いけどな、効くからにはなんかの科学的な仕組みが裏にあるってことだろ。それじゃ、駄目なのか?」
 俺の問いかけに、二人揃って即座に反応できなかったらしい。こんなこと、今後二度とありはしねぇに違いない。
「それにな、薬なんて効きゃいいんだよ。仕組みがどうあれ、患者にしてみりゃそんなの知ったこっちゃねぇ話だ。本物の薬だろうが偽薬だろうが、効いた方が患者に取っての本物だろ。
 確か『火焔樹』は志願者だ。
 遠い昔に噂で聞いた話だと、彼の恋人は病を患っていた。当時彼女がかかっていた医者は効果のない薬を処方し続け、彼女は一度たりと効果を体感することなくこの世を去ったのだ。そんな昔の経験から、『火焔樹』は現代医学を嫌い、この組織の門を叩いたのだとかなんだとか。
 『羽蝶』が何を言ったのかは知らんが、現代医学の観点からコメントしたのは間違いねぇだろう。
「再現性のない偽薬は、科学的に問題なんだけど」
「だからあいつは再現しようとしてんだろ」
 唇を尖らせる『覇王樹』には、他に反論が思いつかなかったらしい。『羽蝶』はどこか一点を見つめたまま何かを考え込んでいた。
「それは、何においてもそうなのか?」
「そうってぇのは?」
「結果を出すことが重要で、途中経過なんて関係ないのか?」
「んなこた言わねぇよ。途中経過はもちろん大事だ。だけどな、最終的に人の目に触れるのは、多くの場合結果だけなんだ。良い結果を大衆に見せれば、大衆は喜ぶ。経過がどうあれ」
 瞳を伏せて黙り込んでしまった『羽蝶』を見ると、『覇王樹』が俺を責めるような眼差しで見上げてくる。
「『羽蝶』、そろそろ培養終わるんじゃない?」
「あぁ、そうだな」
 彼の言葉に彼女は疑うことなく一つ頷くと、『覇王樹』と俺をこの場に残して脇目も振らずに去って行く。彼女の背が見えなくなった所で、『覇王樹』が口を開いた。
「なんて概念を教えてくれるのさ」
 俺の妹に。
 それは、今まで聞いたことのない、冷ややかな声音だった。
「あ? 何か問題だったか?」
「大有り。多分『羽蝶』、手段選ばなくなる」
 ひたりと、彼の瞳は『羽蝶』が去っていった方向を見つめている。眉間に寄る皺は、血の繋がらない妹を想ってのことか。
 『羽蝶』は曲がったことが嫌いなようだから、全く手段を選ばなくなるなんてことはねぇんじゃねぇだろうか。『覇王樹』が何の心配をしてるかは知らんが、あいつなら大丈夫だと俺は思うんだ。
「盗作とかそっちの心配? それは必要ないよ。でもね、『空木』。彼女は多分その内」
 ——自分自身を実験台にするんじゃない?
 普段の表情に戻り、笑いながら歌うように告げられた『覇王樹』の言葉に俺はぞっとした。そんな表情ができる『覇王樹』に、そして。
「いや、いくら『羽蝶』だからってそんな……」
 ——『羽蝶』は、己を鑑みないことが多々あるのは事実だ。
「その言葉、数年後まで覚えておくことだね」
 珍しくも『覇王樹』はそう吐き捨て、俺の顔を見ることなくどこかに行ってしまった。
 『覇王樹』の怒りは本物だった。ならば恐らく。
「……やるんだろうな」
 『羽蝶』は、自身を実験台に。
 俺は頭を抱えるしかなかった。



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