独立まで、あと何日



「うわぁっ。『空木』、どうしようっ」
「何だお嬢、落ち着け、深呼吸」
 実験室の中をばたばたと走ってきた『勇魚』は、俺が言った通り深呼吸をしてみせる。少し落ち着いたらしい彼女に何があったのか聞けば、色が変わったのだと手に持っていたサンプルを見せてくれた。確かに、元々青い薬品の色が緑色に変わっている。
 だがそれだけの話だ。何を心配してるんだか。
「あー、これなら問題ない」
「本当?」
「ほら、色変わりインクとかあるだろ。酸度が変わると色が変わる奴。あれと一緒」
 ほっとしたような顔になった彼女だったが、またしかめっ面になる。何だ、今度は何が問題なんだ。
「お嬢、分かってないって顔してるぞ」
 『勇魚』は散々躊躇った挙句、不安そうな顔をして上目遣いに俺を見た。そしてようやく口を開く。
「……イロガワリインクって、何?」
 お嬢の言葉に、俺の方の思考が完全停止すること数十秒。
「……ナニ? お前、色変わりインクを知らないってのか? あー、確かにここじゃ手に入らんしな……。じゃあシリカゲルなら分かるだろ? 乾燥すれば青くて湿気ると赤になる奴」
「うん、分かるよ。じゃあ何かすると元の色に戻るんだねっ」
 満足したのか良い笑顔で『勇魚』は戻っていった。けれど。
「シリカゲルが分かって、色変わりインクが分からんとは……不憫な奴だ」
 今度注文リストに加えておこう。俺は心に決めた。

 『勇魚』がここの組織に来てから早くも八年。
 彼女と同時にここに来た『覇王樹』と『羽蝶』の二人は既に俺の監督下から離れ、今は誰かの実験アシスタントでもやってるはず。この一、二年の内には自分の研究でもやらせて貰えるんじゃねぇだろうか。
 で、未だ俺の所に残っているのが『勇魚』。
 『勇魚』の名誉の為に言わせて貰うけどな、決してあいつが落ちこぼれなわけじゃなくて、ただ『覇王樹』と『羽蝶』の二人が出来すぎるだけ。……まぁ、あいつらだから。
 あの二人には遅れる形にはなったが、『勇魚』の奴もようやく研究見習い。アシスタントと違うのは、見習いにはまだ監督する人が必要だってこと。
 この見習い期間が終了すれば、俺もようやく子守から解放されるわけなんだが……うーん、前途多難だ。
 俺は自分の実験に使う機械のセットアップを終え、『勇魚』の様子を見にいけば彼女は既に実験室にいなかった。今しがた流されたばかりらしい電気泳動のゲルは、染色液に漬けられて揺られている。
 もう染まってるか? これ。
 俺が眺めているとすぐに『勇魚』がノートを手にやってくる。
「まだ染まってないと思うの」
「いや、俺には見えるね。ここにバンドがある、これだろ多分」
 彼女はゲルを覗き込んで、俺を見上げた。
「見えないよ」
「いいから俺を信じろ。これ、液クロかけるから準備よろしく」
 うん、と頷いて彼女は小走りに駆けていく。……そろそろ実験室内で走るなと教えるべきか? いや、こういうことは最初に教えるべきだったんだろうが……。
 後ででいっか、と思い直して、俺は液クロの機械準備にかかった。
 とは言え設定さえすればパソコンが勝手にやるから、バッファーがカラムを流れていくのを見ているだけなんだが。
 サンプルの準備を終えた『勇魚』は、黙ってカラムを眺めているし、何やら考えてるみたいだから話しかけるのもまずいかと思うも、俺は飽きた。と思えば来たのは何故か『覇王樹』。
「お前実験室違うだろ。出てけ」
「仕方ないじゃないか。人手が足りないって言ったの、おたくらだよ」
 奴は物理工学を専門にしているはずだ。なのに誰だ、そんな奴に生物系の実験アシストをさせている奴は。
 俺の冷たい視線なんてあっさりと無視して、奴は冷凍庫を漁っている。そして何を思ったのか、冷凍庫のドアを閉めた奴はこんなことを言い出した。
「この冷凍庫、寒っ」
「お前は冷凍庫を何だと思ってんだよ。冷凍庫が暖かかったらそれこそ困るだろが」
 冷凍庫の中をいじった手を寒そうに擦り合わせる『覇王樹』に、俺は思わず突っ込んだ。
「だってこんなに冷たいとは思わなくってさぁ。もうちょっと暖かくたってよくない?」
「設定されてる温度見ろ、温度。暖かそうな温度に見えるか?」
 えぇー、と反論しかける彼を制するように、チャリンと音が鳴る。よし、機械の方は準備完了だ。後はサンプルを流すだけ。
「ほら『勇魚』、サンプル貸せ」
 とりあえず『覇王樹』の方は放置して、訳が分からずに呆然としている彼女からサンプルを半ば強奪し、さっさと彼女の実験を進める。
「何その音。設定したの、『空木』?」
「あぁ、作った」
 俺の返事に、覇王樹は楽しそうにけらけらと笑う。
「暇だなぁ。『空木』ってば」
「うるせぇ。この位遊ばせろよ」
 俺はひとまず、奴を生物の実験室から追い出すことにした。
「『勇魚』。お前の方はこれ、結果出るの二時間後な」
 うん、と彼女が頷くのを確認して、俺は自分の実験に戻る。どこまで終わって、どこからやるんだったっか。いかん、『勇魚』の実験の方に気を取られて自分の実験でやっていたことを忘れたぜ。
 お嬢の方、そろそろ俺が手出ししなくても大丈夫だとは思うんだが……、っていうかそろそろもうちょい独立してくれると俺が助かる。『勇魚』がどう思っているかは知らん。
 実験台の前に立ってさっきまでやってた実験を思い返してみれば、そういや一段落着いてたんだったかと思い出す。
 『勇魚』には次何やるかの予定を立てろと口うるさく言っちゃいるけど、俺自身予定なんて立てたこともない。朝来て、実験ノートをざっと見直して、その日の方向性を決めるくらいだ。
 あ、この間やり始めて後に回してた実験があったな。ってことは細胞培養か……とか考えてると、『勇魚』の奴が実験室に入ってくる。
 何を思ったのか、彼女は俺の背後をうろうろ。なんとなく気が散った俺は、声をかける。
「お嬢、何か探してるのか? 何が欲しいんだ?」
「違うの、何もいらないのっ」
 じゃあうろうろするなよ、と俺が突っ込む前に、『勇魚』は言葉を続ける。
「わたしね、ただね、スペースが欲しいだけなのっ」
「……」
 気づいてみれば、確かに俺がさっきまで使ってたノートやらペンやらフラスコやらビーカーやらが実験台の全体を占領してて、パッと見スペースがない。
「……すまん、今片付けるから待ってろ」
 もっと広い実験室、欲しいよなー……。

 もう遅いからと『勇魚』に切り上げさせた俺は、今後の実験の方向性をどうしようかとぼんやりと考えながら食堂でコーヒーを啜っていた。
「あら、今日はあのおちびさんはいないのね」
 カップを片手に話しかけてきたのは『石竜』だ。やったら『羽蝶』に冷たい奴。
「いつも俺と一緒にいるわけないだろ、あいつだって同じ子供といた方が気が楽だと思うしさ」
 それもそうね、と言う彼女に座る気配はない。んな長話、する気はないってことか。
「あんな子に研究なんてやれるの?」
「それは年齢的なことか? それとも『勇魚』個人のことか?」
「年齢的な話よ。それとも、あなたはあの子に研究者の素質がないとか、そういうことを思ってるの?」
 意地悪く言われて俺は軽く溜息をつく。
 『羽蝶』と『覇王樹』の二人は何考えてるのかから苦手だけど、『石竜』は明らかな悪意が見えるから苦手だ。
 んなことを考えてると、彼女はまた笑う。
「あなたのそういう正直な所、好きよ」
「悪かったな、バカ正直に生きててよ。でも、他人なんか信じるもんかっていう生き方よりは、大分楽だぜ?」
 ふうん、と気のない返事だけして、『石竜』はカップに口をつける。
「はっきり言えばいいじゃねぇか。『勇魚』のどこが気に入らない?」
「そうね、あの子は普通すぎるわ」
「『羽蝶』は天才すぎて嫌いってか? 難儀だな、お前」
 よし、決めた。『勇魚』の方があと一週間で切り上げさせよう。もう十分すぎるくらいの結果は出してるしな。じゃあ明日はレポートの話でもすっか。
「あなたって本当、自由な人よね。人と話しているのに、別のことを考えているだなんて」
「あ、わりぃ。いつもの癖で」
「いいわよ、別に。せいぜい子守り、頑張ってね」
 立ち去る『石竜』の背を、俺はぼーっと眺めた。
 あいつ、結局何を言いに来たんだ?


 一週間後。
 一連の実験が終えて、今後どうするかについて話そうと言っていたのに『勇魚』がいない。
 ちょうど彼女と約束してた時間に電話で話していた俺も問題なんだとは思うが、だからと言ってどこに行った、『勇魚』。
 部屋にも実験室にもいなくて、思い浮かんだ食堂に行ってみれば正解。子供は子供らしく、子供同士でつるんでいた。
「こら、『勇魚』。今俺とのミーティングのはずだろ? 何やってんだよ」
「だって『空木』ってば電話でしゃべってた」
 『勇魚』は悪びれもせずに言って、ぱくっと机の上にあるクッキーを齧りついた。
 彼女と一緒にいるのは『羽蝶』と『覇王樹』。年齢的に一緒にいて当たり前と思わなくもないが、実際に三人同時に見かけるのは非常に珍しい。
 俺の考えを知ってか知らずにか、俺を見上げてにこっと笑うと、『覇王樹』もクッキーに手を伸ばす。
 『羽蝶』は興味がないらしい――全く手をつけようとさえしない。
「皆が食べているのに、俺が食べない理由なんてないよな」
 おいしいよー、と『勇魚』にも勧められて、一つ口に放り込む。
「……んで、これどうしたんだ?」
「誰が作ったのかも分からないようなモノ、よく食べる気になるね」
「お前が先食っただろ」
 棘のある言葉に言い返せば、だから? と彼は嗤った。だから? なんて俺が聞きたい。お前は一体何が言いたいんだ。
「食堂のおばさんがくれたのー。みんなで食べてねって」
 明らかに一人食べてない奴がいるけどな。
 きっと今『羽蝶』の頭の中を覗き見たら、おっそろしい程の速さと正確さで、なんらかの演算がなされているに違いない。すげぇ。
「……何だ、『空木』」
 視線は感じるらしい。今まで微動だにしなかった彼女が見上げてくる。
「いや、別に。お嬢、いつまで食ってんだよ。ほら行くぞ」
「えぇー、ここでいいじゃない」
「太るぞお前」
「『勇魚』が箱ごと持ってけばいいよ、これ。僕たち十分貰ったし。ね、『羽蝶』?」
「あぁ」
 駄々をこねる『勇魚』を前に、彼らはさくっと片付けてさくっと差し出した。
 何だこいつら、子供の癖に。子供からでも好意はありがたく貰っておくが。
「あんがとな。じゃ、また後で」
「話ってなあに?」
 俺の横をちょこちょこと小走りになって『勇魚』がついてくる。いかん、速足すぎたか。
「お嬢の実験さ、終わりでいいかなって思ってな。後はレポート書いて総司令に提出するだけだ。今までよく頑張ったな、『勇魚』。
 ……どした?」
 突然立ち止まってしまった彼女を、俺は振り返った。……うわぁ、捨てられたような顔してやがる。
「も少し喜べよ。独立できるんだぜ?」
「……しなくて、いいもん」
「あのなぁ……」
 上目遣いに見上げられ、俺は一瞬言葉に詰まる。
 こんな幼い子を、俺はこの組織の中に放り出そうとしているのか。
 彼女は『覇王樹』や『羽蝶』と違って、己を守る術を知らない。もう少し俺の庇護下にいたほうがいいんじゃないだろうか。いや、でも。
 脳裏に去年生まれたばかりの赤ん坊の顔が浮かんだ。
 こんな状態で俺は、あの子も守ってやれるのか?
 もしあの子までここの組織に関わることになってしまったら、と思えばぞくりと肌が粟立つ。
「……『空木』、大丈夫?」
「え? ……あぁ」
 今度は心配そうに見上げてくる『勇魚』に、俺は笑いかける。
「どうする? 嫌ならまだ暫くは俺のとこで実験しててもいいが……」
「いいよ、困らせてごめん」
 言って、『勇魚』は頑張って笑顔を作る。
「独立、するね。頑張ってレポート仕上げる」
「そっか。聞きたいことあったら、いつでも来ていいからな。それに、何か困ったことあればいつでも来いよ」
 うん、と頷いてお嬢はぱたぱたと走っていく。彼女を引き止められるだけの言葉を、俺は持たない。
 ……ごめんな。いつまでも守ってやれなくて。

 いつか、ここから抜け出せたら――



暗黒の雲
月影草