瑠璃の定義



『覚えていてね。希望の色を』
 優しい声。温かな手。
 最早、届くことのない――

 ぱちりと目を開く。そのままの体勢で整理するのは夢の記憶。
 最初の内は、この、夜毎に増えるノイズのような情報が何であるのかが分からなかったが、先輩の一人がそれは夢という物だと何故か教えてくれた。
『理解できない。ヒトは非効率的だ。夢なんて言うものに脳を使うくらいなら、もっと重要な理論でも考えさせれば良い』
『非効率的に見えるがな、人間が効率を保つ為には必要なんだ』
 『空木』というコードネームで遺伝子学専門の彼は、何故かそういう、学術に全く関係のない、全く必要のないことまで私に覚えさせようとする。その行動自体も私には理解しがたくて、何故かと一度問うたことがある。
『何故ってお前、それ本気で言ってんのか? 研究者として以前に、ヒトとして知っておくべきだろが』
 当然、と彼は笑ったが、私には良く分からなかった。
 「ヒト」の定義を、誰か。


 隣を歩いていた『空木』がその速度を緩めたのは、前方の廊下を曲がった辺りから聞こえてきた職員二人の会話が理由だと気付くのに少し時間がかかった。
「いやぁ、人工知能殿は研究テーマも方針も実際の実験も、色々と一般人の常識を超えてるってか、派手だよな」
「あ? 人工知能って何のことだ?」
 一人の言葉に、もう一人が疑問を返す。
 人工知能は、この組織の科学力を持ってしても未だに辿り着けていない未来の技術。だから正確には「人工知能」だなんて存在しない。彼の言葉は恐らく「ヒトでない」ことを揶揄するもの。
 だとすれば揶揄されているのが誰なのかも、『空木』が躊躇いを見せる理由も、自ずと分かってくる。
「ほら、あのちびっこどもだよ。元々ここのサンプルだったのに、職員が裏切って持ち出して姿をくらましたせいで、回収に大忙しだったって、あれ」
「そーいやあったな。あれって回収する必要あったのか? あのまま外に置いといてもらった方が、俺たちとしても都合良かったよな。変に比較されないで」
「確かに……いやだけど、あんなもん外に放置しとく訳にもいかねぇって。実験用マウスを放し飼いにする奴がいるかって話だろ、要は」
「うっわ、そう言うとすっげぇ馬鹿っぽい」
 そして二人は、話題に上っているその「サンプル」とやらが間近で彼らの話を聞いていることも知らずにけらけらと笑う。『空木』が隣で、ぎゅっと手を握りしめるのが見えた。どうやら彼は、怒っているらしい。
 幸か不幸か、私は怒りや悲しみなどという感情を生憎持ち合わせていない。何故他人のことなのに『空木』が怒るのか、そもそも今の会話の何に対して怒るのか、よく分からない。それでも、彼らの言葉は耳にいつまでも残る。
 『空木』が私の肩にそっと手を置き、私は彼を見上げた。彼の暖かな体温は、どことなく懐かしいように思えて、訳もなく安心した。理由を問えば、きっと彼は言うのだろう。『それが、人と一緒にいるってことだ』と。
「あいつらの言うことなんて聞いてるだけで無駄だ。お前、無駄なことはしない主義なんだろ」
 聞くなと。
 聞いてしまったのならば忘れてしまえと。
 じっとこちらを見下ろしてくる彼の瞳には、真剣な怒りの色がある。
「あんなたかだかサンプル、人間と同じ扱いすることねぇのにな。その辺に檻でも作って飼育しときゃいいんじゃね? なんなら芸でも覚え込ませるかね。まだ子供だし、見た目だけなら癒されもするだろ」
 言って、彼らは更に笑う。何がおかしいのかを私が考え込んでいれば、『空木』が廊下の角を曲がる。考え込んでいたせいで、それを止める間はなかった。
「ふざてんじゃねぇよっ」
「は? あぁ、あんたってそーいやサンプル贔屓にしてたよな。何、次期総司令はどっちかだろうから、今のうちに取り入っておこうって?」
 『空木』に一喝されても動じなかった彼らだが、『空木』に続いて姿を見せた私には凍り付いた。
「や、やあ『羽蝶』。楽しくやっているかな?」
 彼らが見せた笑顔には、不自然さがある。あぁ、そうだ。これが引きつった笑顔というもので、作り笑いなのだ。本心でないから、言葉もただ滑る。
「あぁ、悪くない。そちらも研究が順調に進んでいると聞いた。次回の中間報告を楽しみにしている」
 淡々と返して彼らの横をすり抜ける。背後でちっと一人が舌打ちするのが聞こえた。
「で、『空木』。お前はあの人外のお姫様のナイト気取りかよ」
「いや、俺はあの女の子の保護者だ」
 「女の子」を特に強調し、後から追いついてきた彼は慰めるように私の肩を抱く。
 慰めの言葉が必要そうな、そんな痛ましい表情をしていたのは彼、『空木』の方だというのに。
 それにしても、「サンプル」はやはり「サンプル」であって、如何に姿形が似ていようとも、同じように身体が機能しようとも、「ヒト」には含まれないのだろうか。私は、彼らと同じ、ヒトの遺伝子を保有しているというのに。


 いくら考えても、いくら調べても答えが出ない事があるのだと、初めて知った。
 ヒトの定義は難しい。ヒトと同じ形をしていても、ロボットはロボットに過ぎないし、ヒトとしての遺伝子を保有していたとしても、ヒトとしての存在を否定される事もある。一体何がヒトをヒトとするのか、一貫しない。
 ヒトの定義は複数存在するのかもしれないと考えた。だとしても、理解に苦しむ。彼らは何をもって「ヒト」と「それ以外」に分類していたのか。
「『羽蝶』、またむずかしいこと考えてるの?」
「やめとけ、お嬢。どうせお前にゃわからん」
「じゃあ『空木』には分かるの?」
「分かんねぇだろうなぁ。お嬢、ココアでも貰って来い。あ、俺のコーヒーもよろしく。ブラックだからな」
「知ってる!」
 幼い方は『勇魚』。この組織に来たのは私と同時だ。優秀な人材は幼少の時期に確保するのがこの組織ではあるが、『勇魚』の場合はその優秀さを買われたのではなく、彼女は私たちに関わってしまったからという、ただそれだけの理由でここにいる。だというのに他の研究員と同じ優秀さ、同じ仕事量を押し付ける組織は、彼女に一体何を望んでいるのか。大方、この組織の中で生き残りたければ、それだけの価値を示せということなのだろう。
 ともあれ、『勇魚』は『空木』の下で研修中であり、この二人は良く一緒に行動している。
「分かんねぇって顔してるな」
 向かい合うように座った『空木』が頬杖をついて言う。
「お前のことだ、分かんねぇのは理論とか公式とかそんな学術的なもんじゃねぇんだろ、どうせ。科学的なことでお前に分かんねぇんなら俺に分かるはずもねぇけど、それ以外なら、人生の先輩に訊くべきだ」
 『空木』に促され、それもそうだと思った。確かにこのまま考え続けても答えが出る気配はない。効率を考えても、他人に助けを求めるべきだった。
「ヒトの定義を考えていた」
「ヒトの定義?」
 『空木』は露骨に顔をしかめた。そんなものについて話すのが嫌なのか、そんなことを言い出される事が嫌なのか。どちらであったとしても、答えが与えられるのならば構わないし、彼は、それなりの回答をしてくれるだろう。
 私の顔をじっと見て考えていた彼は、やがて何かに気付いたのか「あ」と声をあげた。
「この間の夢の話だな? それと……あいつらの」
 僅かに表情を強ばらせ、声を落として『空木』が言う。彼の表情を、何故か私は見ていられなかった。
「気にするなっつっても無駄だな、その様子じゃ」
 彼は椅子の背もたれにもたれかかり、左手で前髪を掻き上げた。彼が大きくついた息は、一体何を示すのか。
「はい、『空木』、コーヒー持ってきたよ! ねぇねぇ、何の話?」
 氷とココアのたっぷり入ったグラスの中身をストローで掻き混ぜながら、『勇魚』は私と『空木』の間にあった椅子によじ上った。
「あー……」
「ヒトの話をしている」
「人? 誰の?」
「ま、一般的な話だな。例えばお嬢、お前は人間か?」
 短い私の返答では言葉が足りなかったらしい。分かっていない顔をした『勇魚』に、苦く笑いながら『空木』が補足を入れた。『勇魚』は、何を言い出すのかと目を瞬かせた。
「うん? うん、人間だよ」
「じゃあ、こいつは?」
 言って『空木』は私を指す。
「人間でしょ?」
「じゃあ俺は?」
「もー、わたしのことばかにしてるでしょ? 『空木』も『羽蝶』も『覇王樹』もわたしも、みーんなみんな人間だよ? わたしにだってそのくらい分かるもん」
「だ、そうだ」
 『勇魚』の結論を受けて、『空木』は私に振る。やはり何の話なのか分かっていないらしい『勇魚』は、ただその首を傾げた。
「いいか『羽蝶』。あいつらは僻んで妬んでるだけだ。お前は人だ。それはお嬢と俺が保証する。だから、お前は堂々としてりゃいいんだ」
 そう諭されても納得できずに、私はただ押し黙る。更に何かを言いかけた『空木』は結局そのまま口を閉ざし、『勇魚』が運んできたコーヒーに口をつけた。
 途端。
「お嬢! お前、砂糖入れてきただろ!?」
「えー、ブラックだよ?」
「ブラックの意味知ってっか? 無糖だ無糖、ミルクも砂糖もなし」
「だって苦いでしょ?」
「大人の味だっ。大体、飲むのはお嬢じゃねぇだろ!?」
 叱られながらも明るく笑う『勇魚』を見ながら、自分と彼女はどう違うのかと考えていた。
 彼女は良くも悪くも感情的で、思考の前に行動しているように思われる。決して理論的でもなければ効率的でもないけれど、それこそ「子供らしさ」であり、「ヒトらしさ」に繋がるのだろうか。
 ならば私は。やはり。
「おごちそうさま! じゃ、また明日ね、『空木』!」
 ストローでずるずると飲みきったグラスを持ってぱたぱたと彼女は走り去る。あぁ、と片手を挙げて彼女を見送って、『空木』はかたりとカップをテーブルに置く。
「まさかお嬢と違う理由なんて考えてねぇだろうな?」
「理由まではまだ至っていない」
「まだ、かよ」
 どこか不満げに、彼はカップを弄ぶ。そんな彼にふと、訊いてみたくなった。
「『空木』。一番最初の記憶は何だ?」
「一番最初の記憶? 四歳くらいの時に腕白しまくって親に怒られてたっつーくらいじゃねぇの? そういうお前のは……いや」
「『私は何だ』だと思う」
 カップが、彼の手から滑り落ち、机の上を転がった。幸い、中身は入っていなかったらしい。
「しっかりと覚えているのは確かにここに来てからのことばかりだ。夢の中でならば仮初めの家族の事も思い出せる。が、それよりももっと前に、自分では身動きも取れなかった頃に、そんなことを考えていたような気がする」
「物心つく前から妙に哲学的だな、おい。それ、思ったのは何か理由でもあんのか?」
「本当に自分の記憶なのかどうかの確信もないが……周囲の人間と自分の見え方が違った。自分は動こうと思わなければ動かなかったが、他人は私の意思に関係なく動いていた。だから、私は他人とは違うのだと結論づけた」
「あー……乳幼児も結構分かってるって言うしな。言葉と概念が繋がんねぇだけで、概念自体は理解できてるのかもしれんし」
 それは独り言なのか。彼の視線は、既に私すらも見ていない。
 じっと彼の次の言葉を待っていれば、はっと気付いたかのように私に視線が戻った。
「ともかく最初に戻ると、ヒトの定義だったな、お前が訊いたのは」
「あぁ」
「一つ、コンピュータにできなくてヒトにできることがある。それは疑問を抱く事だ。だから悩め、『羽蝶』。ヒトとしての存在を疑問に思うんなら、ヒトであることをやめんじゃねぇぞ」
 珍しくどこか強い口調で言い放ち、『空木』は席を立つ。そのままカップを返しに行くのかと思いきや、私の背後を通る際に彼は囁いた。
「そういや、瑠璃色は希望の色なんだとよ。ま、希望ってもんは持つもんであって背負うようなもんでも、ましてや背負わされるようなもんでもねぇけどさ」
 ——振り返った私を見つめる、彼の視線が寂しげだと思ったのは、何故だろうか。



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