開示された手札



 『龍玉』の視線が最近きつくなったような気がするのは、自分の気のせいであろうかと『勇魚』は自問する。
 組織が執着し、取り逃がし、あらん限りの手を尽くしてようやく手に入れた人材。その彼女はこの組織に入るなりすぐに『羽蝶』の元に配属された。組織が認めた才能を『羽蝶』が育て上げたのなら、一体どれ程の天才になるのかと期待され――それを、『龍玉』はあっさりと裏切ってみせた。三年で物になると言われた『龍玉』は、未だ『羽蝶』についている。
 否、期待を裏切ったのは『羽蝶』の方だ、あの異端児は自分以外の「天才」の存在を許したくないのだ、などという噂までもが流れた程だ。
 けれどいつの間にやらその噂も消えた。これは『羽蝶』が動いたと見て恐らく間違いはないだろう。
 何の為にそんなことをするのか。本人に訊ねてみない限り、確証は得られない。だがそれでも延々と考えてみてようやく『勇魚』は一つの結論に辿り着いた。
 『龍玉』はきっと、組織が思う以上に優秀なのだ。そしてその事実を、『羽蝶』と『龍玉』の二人は隠蔽している。『龍玉』は『羽蝶』が隠し持つ手札。けれど切り札にはならないだろう。何故ならば、『覇王樹』は『勇魚』よりも早くにその事実に気付いているのだろうから。
 しかし、『勇魚』にはまだ分からないことがある。
 今まで『龍玉』は『勇魚』を相手にもしていなかったというのに、最近はどうやら彼女のことを窺っているらしい。『羽蝶』にも認められているであろう天才が『勇魚』ごときに何の用ができたのか、いくら考えてみても思い当たらないのだ。
「『羽蝶』」
 偶然なのか必然なのか、通りかかった彼女に『勇魚』は低く問いかける。
「『龍玉』になにか言った?」
 立ち止まり、肩ごしに振り返った『羽蝶』がにこりと笑う。ぞわりと、鳥肌か立った。
「彼女を頼んだよ、茘枝」
 ――まるで、いなくなる準備をしているようではないか。
 不吉な予感だけを漂わせ、そのまま立ち去ろうとした『羽蝶』を、我に返った『勇魚』は慌てて追いかける。『羽蝶』はそれを見越したかのように、歩調を落とした。
「ちょっと待ちなさいよ、一体、何をするつもりなの?」
「私はただ、困ったら茘枝を頼るようにと言っただけよ。あの子は今、あなたが信頼に値する人なのかどうかを見定めようとしている。そう言えば満足?」
 歌うようにさらさらと楽しげに告げられ、『勇魚』の思考は追いつかない。第一、
「レイシって……?」
 聞き慣れない、けれど馴染みのある響きに、思わず他のことはそっちのけで『勇魚』は訊き返す。『羽蝶』はより一層楽しげな表情を見せた。
「あら、あなたは自分の本名すらも忘れてしまったのかしら、瑕瑾茘枝」
「カキン、レイシ……」
 『羽蝶』の背を追いながら、『勇魚』は小さく呟いた。

 「総合部門」。その名の通り、その部門が行う研究にはありとあらゆる分野の知識が必要となる。専門外という言葉は、この部門内において言い訳にすらならない。
 その比較的新しい部門に在籍している研究員は二名。『羽蝶』と『龍玉』である。
 『羽蝶』は現在『勇魚』と共にある為、研究室の中にいるのは『龍玉』一人のはずであった。だというのに研究室の中から話し声が聞こえ、『羽蝶』は立ち止まる。『勇魚』も従った。
「生意気。『羽蝶』の側にいられるからって、調子に乗らないでくれる? 目障りなの」
「……『羽蝶』の方が年下でしたよね。あなたは年下に認めて欲しいんですか?」
「『羽蝶』と言い、あんたと言い……っ」
 冷たいほどに静かな声と、怒りに任せて叫ぶ声。前者は『龍玉』であり、後者は、
「……『斑猫』?」
「あぁ……どうも私たち二人が気に入らないらしくてな」
 『勇魚』の言葉に『羽蝶』は小さく返し、躊躇いもせずに中に入る。その時、ばしっと乾いた音が響く。
 手を上げた本人は、『羽蝶』の姿を見るなり青ざめた。けれどそこで謝れるほど、彼女は素直ではない。
「あら、ようやくのお帰り? 最近ここであんたの姿をめっきり見かけないけど、研究はちゃんと進んでるの?」
 嫌味を気にした様子もなく、『羽蝶』はまず『龍玉』に大丈夫かと視線で問いかける。問われた『龍玉』は、にこりと笑って頷き返した。そうして、ようやく『羽蝶』は『斑猫』にと向き直った。
「心配してもらえるとはありがたい。だが、それはまるでお前がここを常に監視しているような言い回しだな。お前の方こそ、実験は進んでいるのか?」
「ノルマはちゃんとこなしてるし。どっかの誰かと違って」
「他人と比較してばかりだな。もう少し自分のことを考えてみた方が良い」
「どういう意味よ」
 淡々と言う『羽蝶』を、『斑猫』はきっと睨みつけた。
「『覇王樹』もお前の行動は目に余ると言っていた。どういう意味かは分かるな」
 怒りからか恐怖からか、一瞬『斑猫』は黙り込む。そして彼女は弾けたように笑い出した。
「もしかしてあたしのこと脅してるの? 魔術師と呼ばれたあんたも、やっぱり最後に頼るのは科学でも理論でもなくて権力なんじゃない。ばっかじゃないの。あんたがどれだけすごいのか知らないけど、やっぱり大したことないのね」
 ばっかみたい、と勝ち誇ったように『斑猫』は繰り返していたが、相変わらず冷めた態度の『羽蝶』の態度に、更に機嫌を悪くしたようだった。
「何よ、言いたいことがあるなら言いなさいよ。それとも……」
「『斑猫』、やめて」
 刺々しい言葉ばかりを口にする『斑猫』と、彼女を冷やかに見つめる『羽蝶』と『龍玉』、三人を取り巻く空気のあまりの痛々しさに耐え切れず、今までおろおろとしていた『勇魚』が口を挟む。
「『羽蝶』、『龍玉』と行く所あるんでしょ、行ってくるといいよ」
「でも私、次の実験が……」
「区切りがいいのなら入れるな」
 今までの冷静さとは打って変わり、「でも」と戸惑う『龍玉』を「行こう」と短く促して、『羽蝶』は部屋を出た。
 その場に残されたのは『斑猫』と『勇魚』。そもそも気の強くない『勇魚』からすれば、彼女も『羽蝶』と一緒に部屋を後にしたかったのだが、そうもいくまい。
「なによ、何で今更あいつの肩を持つのよ」
 にらまれて思わず足がすくむ。よくあの二人には彼女を煽るような真似ができたものだと、『勇魚』は思った。
「皆、『羽蝶』を崇拝対象にしちゃって馬鹿みたい。ただの人間じゃない。ちょっと頭はいいかも知れないけど、すごくもなんともない。笑っちゃうわよ、本当に。あんなのが Magical Scientist だなんて。そう『勇魚』は思わない?」
「思わない……というより、思えないかな」
 小さく反論すれば、『斑猫』の眉がぴくりと跳ね上がる。いつもならば『勇魚』は『斑猫』の顔色を窺って当たり障りのない返答をするのだが、今日は後に退けなかった。
「『羽蝶』は、あの子は確かに人間だよ、ただの。それを勝手に祀り上げたのは私たちであって、それをあの子のせいにするのは、違うんじゃないかな」
 『斑猫』ににらまれ、圧されるように『勇魚』は俯く。
「人間だから、だから、支えてあげなくちゃ行けないと思うの」
「でもそれを言ったら『覇王樹』だって人間でしょ?」
 その理屈では『羽蝶』の側につく理由にならないと、『斑猫』は言う。『勇魚』は否定できず、ただ口ごもった。
「強そうな側についてるだけじゃないの、結局」
 この、裏切り者。
 声なく囁かれた言葉に、『勇魚』は立ち尽くすしかなかった。



 数日後、『羽蝶』に呼び出された『勇魚』は再び総合部門の研究室にいた。けれどどういう風の吹き回しか『羽蝶』本人は遅れており、忙しそうに実験をしている『龍玉』の横でただ待っているのは、苦痛以外の何ものでもない。
「ねぇ、『龍玉』……ううん、紗綾。私、なにか……」
「猪代さんには、あなたを頼れと言われました、それで、本当に頼っていいのかと……すみません」
 あっさりとそう謝った彼女に、『勇魚』は目を瞬かせた。
「今まで猪代さんには誰も頼るなと言われていたので……」
 確かに、突然手の平を返したようなことを言われれば、紗綾だって戸惑うだろう。その結果だったのだ、彼女は『勇魚』を見定めようとしたのは。
 紗綾がどんな結論を導き出したのか、『勇魚』には知る由もないが。
「紗綾は知ってるの? 『羽蝶』が何をしようとしてるのか」
「それは、『勇魚』……瑕瑾さんにも検討がついているのでは?」
 逆に問い返され、『勇魚』――茘枝は頷いた。
 五年前や八年前とは違う。今やこの組織の中にも『羽蝶』には味方がいる。ならば今から彼女がやることは唯一つだ。
「この組織、なくなるのかな」
「猪代さん――瑠璃さんが賭けに勝てば、なくなるでしょうね」
 紗綾のどこか含みのある言い回しに、茘枝は首を傾げた。どうやら紗綾は、茘枝が知っていること以上の何かを知っているらしい。もしくは、
「それは、あなたはこの組織がなくなることに反対と、そういうこと?」
「まさか。普通の女の子として過ごせたら良かったのにって、今でも思いますよ。この組織は今の世に必要ない。私は瑠璃さんを支持します」
 そう紗綾ははっきりと言い切っているのに、彼女の瞳にはどこか影がある。それは『羽蝶』の、瑠璃のやり方に、紗綾が完全に納得していないからなのだろうと思わせた。
「紗綾。あなたはどこまで知ってるの?」
「どこまでって」
 何を言い出すのだ、とでも言うかのように、紗綾は眉をひそめた。そして暫し沈黙し、彼女は再び口を開く。
「ところで、瑕瑾さんがこの組織に入られたのは、まだ幼い頃だったんですよね」
 覚えてありますか、との問いに、茘枝は曖昧な笑みを返す。
「幼かった、というのは覚えてるけど、思い出としてというよりは、知識としての方が正しいかしら」
「そうですか。じゃあ猪代さんのことは覚えてあります? 猪代さんも、まだ幼かったんですよね?」
「確か、ここで一緒に育ったんじゃなかったかしら。本人に聞いてみたら? 覚えてるかも知れないわよ」
 提案する茘枝に、そうですねと紗綾は一つ頷いた。そして彼女は茘枝をまっすぐに見つめる。
「猪代さんは覚えてあるでしょうね。いえ、恐らく忘れられなかった、の方が表現としては正しいでしょう。まさかとは思いますが瑕瑾さん。もう一人のことはさっぱり覚えていないとか?」
 紗綾は一体何を言い出すのだろうかと、茘枝は恐ろしくなる。
 彼女は『羽蝶』や『覇王樹』とどこか似ている――全て知っているような、知られてしまっているような、そんな気が茘枝にはした。
「もう一人って何のこと? 確かに三人だったような気もするけど……」
 もう一人は誰だっただろうか。茘枝はてっきり『斑猫』が三人目かと思っていたが、彼女は違う。彼女は途中で入ってきたのだと、今更ながらに思い出した。
 ならば三人目は誰なのか。幼い頃一緒にいたと言うのならば、年齢は同じくらいなはず。けれど茘枝がいくら思い返してみても、同じくらいの年齢の研究員に思い当たらない。
 否、一人だけ思い当たった。猪代瑠璃と同じく、紫色の瞳を持った――
「――『覇王樹』?」
「えぇ。あのお二人、ご兄妹ですよ」
 世界が、暗転した。



暗黒の雲
月影草