異文化騒動



 『羽蝶』は珍しく、どうしたものかと思案していた。
 彼女の手にあるものは、プラスチック製の、カボチャを模したバケツ。オレンジ色で変な顔まで描かれてあるそれの中にはキャンディが。見た目が幼い『羽蝶』が持っていても、おかしいものではない。
 ただ、にこりとも笑わない彼女の無表情さが、違和感を醸し出していた。
 一体これで何をしろと言うのだ。
 彼女の戸惑いは、生憎表情として表れない。
 オレンジ色のカボチャを手にしたまま立ち尽くす彼女は記憶を探るが、こんな「珍事」に対応するためのマニュアルなど、彼女の脳内に存在するわけがない。
 とりあえず、これは部屋に放置しておくことにしよう。
 方針さえ決まってしまえば行動は速いもので、『羽蝶』はさっさと食堂を後にし、自室へと向かうことにした。

 地下一階の西棟。食堂の真上に位置するこの部分は、この施設に在籍する研究者の居住スペースとなっている。
 それは幼い『羽蝶』も例外ではなく、自室として一部屋与えられていた。
 食堂から階段を下がってきた彼女が、階段室で鉢合わせしたのは、『覇王樹』。『羽蝶』より二つ年上の彼は、やることがないのか、退屈そうな顔をしていた。
 その彼は『羽蝶』の持つカボチャを見て、にこりと笑う。普通の笑顔ではない。退屈しのぎを見つけた時の、楽しそうな笑顔だ。同時にそれは、『覇王樹』がこのオレンジのカボチャが何であるのかを知っていることを意味する。そう、『羽蝶』は判断した。
 上手く聞けば、何らかの情報を得られるかもしれない。
 だが、『羽蝶』は未だに『覇王樹』から情報を引き出せた試しがなかった。悔しいが、彼からは大したことが聞けないと思っていて、間違いはないだろう。
 そんなことを彼女が延々と考えていることを知ってか知らずにか、『覇王樹』は嬉々として口を開く。
「良かったじゃない。『羽蝶』もそれ、貰えたんだ」
 それ、と指されたカボチャを、彼女はちょっと掲げてみせる。
「食堂のおばさんからでしょ」
「あぁ、そうだが……」
「まったく、あの人もマメだよねぇ。なんか、それってさ、ここにいる子供全員が貰ってるっぽいよ。ま、僕は『勇魚』くらいしか付き合いないから知らないけど」
 暇そうに頭の上で腕を組む彼、『覇王樹』に、大した答えは返ってこないと知りつつも、これは何なのだ、と『羽蝶』は問いかける。
「そうだよねー、普通に知らないよねー。知らないって言ったら、おばさんにびっくりされちゃった。
 何でも理扉の方のイベントらしくてさぁ。本当は仮装するんだってよ?
 あ、でも僕も詳しいことを知ってるわけじゃないし、『空木』にでも聞くのが一番いいんじゃない?」
 やはり細かいことまでは無理か、と思う彼女に、ひらひらと手を振りながら、彼は階段を降りていく。
 ここよりも下の階にあるのは、実験室。これから実験が入っているとは聞いていないから、また誰かの実験を邪魔しに行くつもりなのだろう。
 冷静に分析した後で、『羽蝶』は『覇王樹』のことはどうでもいい、と頭の中から追い出した。分からずに放って置くのもどこか鬱陶しい。ならば今から『空木』に会いに行こう。彼の部屋はここ、西棟ではなく南棟にある。
 方向性の定まった彼女が階段室から出ると、今度は『石竜』と出会った。彼女は『羽蝶』を見て思わず吹き出したようだったが、そんなことは『羽蝶』には関係がない。気にも留めずに横をすり抜けようとすると、何故か呼び止められ、渋々ながらに立ち止まった。
「まあ、なんてかわいらしいことでしょう。
 そうよね、あなたくらいの年齢の子供には、フラスコなんかよりもずっとお似合いだわ」
 蔑みを含んだ声と口調だけで、『羽蝶』はもううんざりだった。表情が顔に出ないのが、この場合は幸いした。もし本当に嫌そうな顔をしていたのなら、『石竜』は更に冷たく当たってきたことだろう。
 『羽蝶』が『石竜』のことを苦手とするのには、理由が二つある。
 一つは会う度にこうやって嫌味を言われるから。
 もう一つは、自分のことが嫌いなのであれば話しかけなければいいだけのことなのに、何故毎回嫌がらせのような言葉をかけてくるのか、『羽蝶』自身が理解できないから、だ。
 確かに『石竜』は理扉の出だ。このイベントとやらについても、知っているだろう。だが、わざわざ彼女に聞くようなことでもない、と『羽蝶』は結論づける。
 『羽蝶』が何を考えているのか、知りもしない『石竜』は続ける。
「どうせそれが何なのかも知らないんでしょう? あなたってば本当に箱入り娘よね。知らなくていいようなことばっかり知っていて、実際に役に立つことは何も知らないんじゃないの? 常識もないようじゃ、天才の名前が聞いて呆れるわ」
 くすくすと笑う『石竜』に付き合っていられずに背を向ければ、更に冷たい言葉が飛んでくる。
「あら、知りたくないの? 本当に子供らしくない子ね、あなたってば。いえ、子供らしくないどころか、人間らしくもないわ。興味とか好奇心とか意欲とかのない人間なんて、ここにいるべきじゃない。研究者に向いていないもの。
 あんたなんて、さっさと出ていってしまえばいいのよ」
 ――ただの嫌がらせになんて、用はない。

 『空木』の部屋の前まで行くと、ちょうど『公孫樹』が彼の自室から出てきた所だった。
 彼はちらりと『羽蝶』を見、ドアを閉め、改めて彼女を見直した。
 当然というか、やはりというか――彼の注目は、オレンジのカボチャに。
「……何だ、それは。新しい実験器具か」
「残念だが、アセトンで溶けてしまうだろう。大した実験には使えないな」
 そうか、と彼は数度頷く。
 『羽蝶』は一瞬、『公孫樹』がこのイベントについて知っている可能性を考えた。彼も、『石竜』や『空木』と同じく、理扉の出身だ。
 だが彼のこの反応からして、知っている可能性は非常に低い。
 もしかしたら、理扉も地域によってはやらないのかもしれない、と『羽蝶』は分析する。
「おもちゃか?」
「そうかもしれない。理扉のイベントだと聞いた。それ以上は知らない」
 理扉の、と聞いて『公孫樹』は悩んだようだったが、結局彼はそれ以上何も言わずに頷いただけだった。
 そのまま歩き出そうとして、少しためらう。
「……それ、お前には似合わん」
「それは私が一番よく知っている」
 『羽蝶』が冷静に返せば、安心したように『公孫樹』は去っていく。彼は彼女の気が触れたとでも思ったのだろうか。
 彼女からすれば、他人が自分についてどう思っているのかなんて些細なことで、むしろこれだけの人数に出会いながら、まともな答えを得られていないことの方が気になっていた。
 最早これは、上の図書館にでも行って自力で調べた方が早いかもしれない。そんな考えも頭を過るが、一体どんなキーワードで調べればいいのか皆目見当もつかない。
 理扉のイベント一覧などというものがあればいいのだが、こんな科学者集団が保有する図書館に、イベント関係の資料があるとは思えない。もしあったとしても、この状態で役に立つような、まともなものでないことは確かだ。
 仕方なしに観念すると、『空木』の部屋の扉をノックする。彼は待ち構えていたように素早く、大きな紙袋を手に出て来た。
「『羽蝶』か、遅かったな」
「……私が来ることを知っていたのか」
「あぁ、そう仕向けろって、『覇王樹』に言っておいたから」
 人を嵌めたことを悪びれもせずに告げる『空木』に、『羽蝶』は内心溜息をつく。同時に思い描かれるのは、楽しそうな『覇王樹』の笑顔。やはり、やめておいた方が賢明だったのかもしれない。こういう、大して興味もないイベントなど、知らなくたって全くこの先困ることはなかっただろうに。
 このまま帰ってしまおうか。『羽蝶』は本気でそう思い、珍しく表情にまで出たらしい。『空木』に待て、と止められる。
「用があってここまでわざわざ来たんだろ? お前、絶対に用のない所には行かないからな。たまに顔でも出せば、お茶菓子くらいは出してやるってのに。
 って、言ってる側から帰ろうとするな、お前は」
 踵を返そうとしたところを、彼に腕をつかまれ、仕方なく彼女は『空木』を見上げる。
「確かに訊きたいことがある。別に重要ではない」
「ほら見ろ。用事があるんじゃないか。でも訊きたいことなら後だ。その前に言うことがあるだろ、言うことが」
「言うこと?」
 問い返せばそうだ、と促され、『羽蝶』は延々と自分の脳内を検索にかけるが、彼への質問は見つかれど、言いたいことなど他にはない。
「いや、ない」
 数秒間の沈黙の後に言い切ると、『空木』が唖然とした。
「ないって……そりゃないだろ、お前」
「ほら言ったでしょ、『羽蝶』は知らないって!」
 部屋の奥から聞こえたのは、楽しそうな『勇魚』の声。どうして彼女がここにいるのだろうとも思ったが、考えてみれば『勇魚』は『空木』によくなついている。いてもおかしくはない。
「へぇ……。『羽蝶』が知らないってこともあるもんなんだなぁ……。
 よし、『羽蝶』、言ってみろ。トリック・オア・トリート、だ」
「菓子かいたずらか? どちらにも興味はない」
 あっさりと言い切る彼女に、『空木』はなんて扱いにくい奴だ、と顔をしかめる。
「お前の興味なんか訊いてねぇよ。俺はただ繰り返せって言ってんの。
 ほら言ってみ? トリック・オア・トリート」
「……トリック・オア・トリート」
 言わなければ先に進まない話に、『羽蝶』は面倒になって呟いた。
 後は野となれ山となれ。一体次は何をさせる気だ。
 彼女の心境を知ってか知らずにか、『空木』は満足そうに頷き、
「よし、よく言えたな。ほら、そのカボチャ貸しな。チョコでも詰めてやっから」
と、『羽蝶』からもぎ取るようにオレンジのカボチャを受けとった。
 されるがままになっていた彼女は、彼がチョコを詰めるのをある意味呆然と眺めていたが、数秒後には内心で溜息をついていた。
「それで、『空木』。結局これは何なんだ」
「何だって、ハロウィンだよ。名前くらい聞いたことねぇの?」
「ない」
 差し出されたカボチャを、『羽蝶』は不可思議にも反射的に受けとってしまう。いらないというのに。受けとってしまった後で気づいた彼女は自身に嫌気がさし、表情は更に険しくなる。
「ないのかよ。よし、仕方ないから教えてやる。
 ハロウィンってのはな、『トリック・オア・トリート』って言いながら、子供が大人に菓子をねだる日だ」
「…………帰る」
 もう付き合っていられないと踵を返した『羽蝶』の肩を、『空木』が呆れたようにがっしりと捕まえる。
「待てよ。お前ってばさ、本当にせっかちだよな、子供らしくもない。子供は子供らしく、俺の部屋で遊んでけ。
 な、『勇魚』もいることだし」
「わーい、『羽蝶』もいれば楽しくなるねっ!」
 そしてそのまま『羽蝶』は、有無を言わせずに『空木』の部屋に引きずり込まれることとなる。

 それ以来、『羽蝶』はハロウィンというイベントを、面倒なものだと定義づけたらしい。



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