過去と現在と未来



「『空木』。ここの外は――どんな所なんだ?」
 にこりともせずに投げかけられた質問に、『空木』は「はぁ?」と返す。怪訝そうな『空木』の表情に彼女、『羽蝶』は動じることもなく、ただ無言で彼の返答を待っていた。
「確かに俺は来週外行くけどな、さすがにお前の外出許可は降りんと思うぞ? お前をここから出した日には、俺の首が飛ぶ」
 分かってるんだか分かってないんだか分からない無表情さで「分かっている」と彼女は頷き黙り込む。
 本当に分かってないなんてことはないはずだから、分かってて何か考えてるんだろう、と『空木』は思うも戸惑いは隠せない。
「珍しい子供の頼み事だし、あんまし頭ごなしに無理とは言いたくないんだよな。……『羽蝶』。お前は何をやりたい? 素直に言ってみろ」
「外に出れさえすればいい。知り合いはいる」
 彼女は素直の意味を知っているのだろうかと、まず『空木』はそこから疑った。この年齢で既に周りから一目置かれているような天才っぷりと発揮している彼女が知らない訳はない。ならばちゃんと理解しているのだろうかと思うが、そんな些細な違いは今はどうでもいい。
「なんだそりゃ。……あ、お前もしかしてここに来る前の記憶とかあんのか?」
「ない。全て消されたらしい。だが……たまに『思い出す』ことがある。消されたはずだというのに、不可解だ」
 本当に不思議そうに、彼女は少し首を傾げた。
 その仕草を見て『空木』は悟る。いくら『羽蝶』は過ぎるほどの論理主義であろうとも、いく彼女が機械的に見えようとも、まだ彼女の「心」は死んでないのだと。これは――一度でいいから外に出してやらないと、ここで心まで殺されてしまうであろうと。
「そりゃ思い出せないだけで、脳はまだ覚えてんだな、多分。生物ってのは理屈だけじゃ説明できねぇことがたくさんあるんだよ。理論を過信するな、『羽蝶』。
 それで、お前は外の世界ってのを見てみたいのか?」
 ヒトが何かをしたいと思うのは、感情があるからだ。選択肢を提示されて一つ選べるのも、「感情」という偏りがあるからだ。
 『羽蝶』は感情を見せない。でもそれはどうやら全く感情がないわけではなくて、かなり希薄なだけなんじゃないだろうかと『空木』は考える。そうでもなければ外に出たいだなんてことは思わないか、悩まずに選べるかのどちらかであろう。
 もし『羽蝶』が組織しか知らなかったのなら、彼女の感情なんてとっくに死んでいただろう。だが現に彼女は外を「知って」いるし、それはきっと良い方向に向かうだろうと、『空木』は信じた。
 だから彼は育ててやりたいと思う。『羽蝶』の、ヒトとしての彼女の感情を。
 彼女は数秒の沈黙の後、ぽつりと呟くように答えた。
「……分からない。一度外に連れ出されたんだ。外に出る意味はあるんだろう――それに、私自身、興味はある」
 子供らしからぬ言い回しに、『空木』は苦笑する。
「素直に見たいって言えよ。いいよ、出してやる。外に出た後は、自分でどうにかしろよ」
 軽く承諾すれば、『羽蝶』は何を思ったのか思いっきり顔を顰めた。否、表情は変わってないのだけれども、『空木』にはそれがなんとなく雰囲気で分かった。
 彼女はもしかしたら感情が希薄なのでもなく、ただ単に感情表現が苦手なだけではないのだろうかという考えが、一瞬『空木』の脳裏を過る。
「そんなことをしたら『空木』、お前はどうなる。私はともかくお前は……」
 無茶だって分かってて話を振ってきてたことに、『空木』は笑顔になった。確かに少し考えればすぐに分かることだ。
 だがきっと、『羽蝶』が相談してきたということは、彼女自身が延々と悩み続けてきたのだろう。そして、ここにある全てを捨て去ったとしても外に出たいと、彼女が願ったからなのだろう。
 ならば、それを実現させてやらない手はないと、『空木』は腹をくくる。
「何、俺もお前と一緒に逃げるから問題ねぇよ。お前の知り合いってのをちょっと貸せ。それで貸し借りは0な」
「了解した」



「それで、どうだったんだ、ここの外は」
 『空木』が十年ぶりくらいにまともに話す『羽蝶』は、あの時から変わらない外見をしていた。
 『羽蝶』があの薬を飲んで組織から逃亡した時、彼女は十八くらいだっただろうか。あれから十年も経つのならもう少し大人びた雰囲気になっていてもいいだろうにと彼は思う。特に彼女は顔つきがどこか幼いから、もういくつか下にすら見える。
 組織の外を知ったからか、『羽蝶』は態度も表情も言葉も丸くなっている印象を『空木』は受けた。それは当然としても、彼女の言動は更に恐怖を感じさせるようになったのは気のせいだろうかと彼は自問する。
 一つ彼が確信して言い切れるのは、『羽蝶』が他人の感情を明らかに煽るようになっていることだ。
 そして『空木』は悩んでいた。『羽蝶』としての彼女と、猪代瑠璃しての彼女、どちらの方が彼女にとって素なのだろうかと。
 彼のぐだぐだととした思考は、あの頃から変わらず『羽蝶』に筒抜けだったらしく、『羽蝶』は軽く苦笑すると表情をすっと消した。
 組織の中で表情を読むことを学び、組織の外で真似ることを学んだ『羽蝶』だが、どうやら表情の源である「感情」というモノまでは理解しきれなかったらしい。残念なことだと、『空木』は思った。
「広かった。何でも知っていると言われ続けたが、知らないことの方が多いことを見せつけられた」
「知らないことを見せつけられるのが、怖いか?」
 『空木』の問いかけに、『羽蝶』はふと口元を歪めた。答えない『羽蝶』に、彼は問いかけなおす。
「お前が知ってんのは理扉と能利と華永だけだろ? 東の大陸に渡ってみろ、国がいくつもひしめき合ってやがる――こんなとこより、あっちのがよっぽど広いぜ?」
「そうか、世界はまだ広いのか――いつかは、行ってみたい」
 それは今ではないと、彼女は暗に告げていた。
「『羽蝶』。お前は自由なんだぞ? こんなとこに縛られてる必要はもうねぇんだ。もう一回聞くぞ、『羽蝶』。お前はどうしたい? また外に出たいか?」
 あの時と似たような質問に、今度は躊躇うように『羽蝶』はゆるゆると首を横に振った。
「お前は、『戻る』んだろう?」
 逆に問い返され、『空木』は苦笑した。元よりそのつもりで一時的に帰国したことなど、彼女にはお見通しだったらしい。
「ならば……いつか、会いに行ってもいいか?」
「構わねぇけど、お前はなんで華永なんて国にんなに拘るんだよ。祖国ってたって、お前は覚えてねぇんだろ?」
「覚えてない。それに、組織の外にいられないことも、嫌というほどに思い知らされた。それでも――自由が、欲しかった。それが、孤独に繋がろうと」
 ぽつりと無表情のままに告げた『羽蝶』は、どこか寂しそうだった。
「……お前だけ、残されちまったな」
 実験体として、その脳に記憶チップを埋め込まれたのは三人。Heatherと『覇王樹』、それに彼女、『羽蝶』。
 同じ状況にあった三人なら、互いに理解しあいながら生きていけたのかもしれない。だがそれは、Heather、『覇王樹』の両名亡き今、最早望めない。
 その人間離れした優秀さ故に、彼女はこれからも「差別」され続けるのだ。
 思いっきり『空木』が顔を顰めれば、無意味なことで悩んでいるわねとでも言うかのように『羽蝶』はただ楽しげにくすくすと笑う。
「人聞きの悪いこと言わないでくれるかな。誰が瑠璃を一人残したんだって?」
「……は?」
 突然聞こえた男の声に、『空木』は開いた口がふさがらなかった。聞き間違えることのない声。それは『空木』が今の今まで避け続けてきた――
「綜兄さんなら、ここ」
 笑いながら『羽蝶』――瑠璃が見せてくるのは、小さな画面。その画面に映し出されているのは、綜兄さんと呼ばれた男の顔で、彼、輝安も良く知る人物だった。
「綜兄さんって……『覇王樹』かよっ!?」
「あはは、びっくりした?」
「あったりまえだろ、良くそんな技術……そうでもねぇのか」
 記憶チップはその名の通り、全てを記憶する。チップが埋め込まれてから今に至るまでの、その人の行動から思考パターンまで。だから、そのチップを取り出して別の形でアウトプットすることが出来るのなら――こうしてヒトの人格を機械に「移し替える」ことだって可能なのだ。
「本当にお前らには驚かされてばっかだよ。最初から最後まで」
「あら残念ね。私はこれで最後にするつもりだなんてないのに。それに自分が置かれた状況を悲観するのは簡単だけれども、それでは何も変わらないわ」
「いや、それは確かに論理的で合理的だけどな、状況なんてそうそう活用出来るもんでもねぇっての」
 少なくとも彼らは、彼らの置かれた現状を悲観していない。それが、輝安に取っては一番重要なことであった。その事実が確認できて、彼は少しだけ安心した。
「ところで、組織を潰すのに意味はあったのか?」
「あら、あなたは組織の影に怯えながら暮らしたかったの?」
「俺じゃなくてお前らにとってだよ。『覇王樹』が総司令だったんなら、お前らにとって有利な状況にだってできただろ。あえて潰す理由はなかったんじゃないのか?」
 彼からすれば非常に不思議なことだというのに、そんなことと二人は笑う。「そんなこと」――あの組織の存在すら、この二人には大した意味を持たなかったということなのか。改めて突きつけられた事実に、輝安は恐怖を覚えた。
「幼い頃の刷り込みって怖いね」
「それには私も同意するわ」
 綜は治め、瑠璃は希望の輝きとなる。
 それぞれの名前に込められた過去の人々の想いに、彼らはそれぞれ応えただけ。
「なんだよそれ。ってことは、全員お前ら二人に踊らされたってことか? とんだ奴らを懐で孵すことになったんだな、あの組織は。出て行っちまったのを放っておけばそんなことにはならかっただろに」
「僕らもそう思うよ」
「だが――何の為に?」
「面白そうだったから、かしら。なかなか本気ではやりあえないもの」
 言って瑠璃は軽く肩を竦めた。もし綜がヒトの姿でこの場にいたのなら、彼もきっと同じ態度を取ったであろう。その態度が、組織を崩壊させたことに大層な理由などないと暗に告げていた。
「そんな……そんな理由でお前ら……」
「君がそれで、僕がこんな状態になっているって言いたいんなら、それは間違いだよ。こういう選択を彼がするであろうことは、僕らだって予測していたんだから」
「それでもあえて選ばせたのは私たちだしね」
 唖然としたまま声も出せない『空木』に、『羽蝶』と『覇王樹』の二人は歌うように告げる。
「私たちは不可能に挑戦し続ける」
「邪魔はしないでくれるかな、輝安」



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