「『覇王樹』」
 足早に辿り着いた総司令室の扉を、ノックもせずに彼女は開く。中には暇そうに頭の上で腕を組み、天井を眺めている『覇王樹』、総司令がいた。
「あ、来た来た。でもノックくらいはすべきなんじゃないの?」
「ノック? いつからこの部屋は個人部屋になった」
「最初から共用じゃないから」
 こんな無意味な応酬すらも楽しむかのように、彼は嗤う。
「それで、用件は」
「本当に君はせっかちだね、『羽蝶』。来るの遅かった癖に。それとも、君には僕とのミーティング以上に重要なことでもあるの?」
「『覇王樹』とのミーティングと比べれば、世の中それ以上に重要なことばかりだ」
「ひっどい言われようだなぁ」
 彼の作り笑いを見て、『羽蝶』は閉口する。いつだってそうだ。彼が心から笑うことなど、まずない。
「今回はちょっと頼みたいことがあって。本当は僕がやろうと思ったんだけど、『勇魚』に止められちゃってさ。なかなか言うようになったよね、『勇魚』も。あれって誰の影響?」
「『勇魚』か……」
 呟いて思い出すのは、まだ幼かった日々のこと。『空木』によく懐いていた彼女が笑わなくなったのは、いつの頃からだっただろうか。思い返せばすぐに答えは出た。『羽蝶』が組織を出る二年前――『勇魚』が『斑猫』とパートナーを組みなおしてからだ。
「『斑猫』が重しになっていたんだろう」
「それは僕も思ったけどさ。君って本当に好きだよね、そうやって話題逸らすの。僕が何を思ってこの話題を振ったのか、全く分かってないフリして流すつもり?」
「その質問はどう答えても角が立ちそうだな」
 確かに『羽蝶』は『覇王樹』が彼女を疑っていることを知っているし、『勇魚』がはっきりと――数年前との比較でしかないが――自分の意見を述べるようになってきたのは『羽蝶』の影響であることも知っている。
 だがそれはあえて自ら肯定することではない。今から彼に「喧嘩」を売ろうとしているのなら、尚更だ。
「そっか。答えるつもりないなら、それなりに解釈させてもらうけど?」
「私がどう答えた所で、解釈の仕方はそっちの自由だ」
 あっさりと『羽蝶』が返せば、それもそうだねと『覇王樹』は楽しげに笑った。


「そういうことだからよろしく。ついでに『龍玉』も連れていけば?」
 『覇王樹』が言い終わる前に『羽蝶』は部屋を出る。『龍玉』の血縁がいる所に彼女を連れていけとは――彼女を「潰す」つもりか。
 『龍玉』はここに来てから未だに『羽蝶』の下にいる。そうするように『羽蝶』が圧力をかけているからだ。
 今彼女を潰されては困る。けれど、今回の視察に彼女を連れていこうと『羽蝶』が思っていたのもまた事実。
 『覇王樹』は読みを誤った。『羽蝶』は心の中で嗤う。
 あの『龍玉』は、妹の現状を見て潰れてしまうほどにか弱くはない。むしろそれは組織の下に潰され続けてきた彼女の反抗心、闘争心に火を点けるだろう。

「『羽蝶』、どこに行っていたんですか。もう次の実験入りますよ」
「そこで区切りがいいなら入れるな。理扉に行く。連れて行くからな」
 『羽蝶』があっさりと宣言すれば、『龍玉』の手がぴたりと止まった。
「今日中に発つ。準備を」
「待ってください、『羽蝶』。なんでそんなに急なんですか。それに、何で理扉に……?」
「上からの視察命令。『龍玉』も連れていけと言われた。断る理由がない」
 淡々と言う『羽蝶』を、『龍玉』はただ呆然と眺めていた。そんな彼女に『羽蝶』――瑠璃はくすりと笑ってそっと囁く。
「久しぶりに麻仁ちゃんに会いたいとは思わない?」
「え……はい」
 驚きに口の塞がらない紗綾に、『羽蝶』は表情を引き締めて告げる。
「一時間」
「はいっ」

 紗綾自身がこの組織から逃れようとしていた時、猪代瑠璃は口先ばかりだと思っていた。逃してくれると言いながら、結局逃げ切ることが出来なかったからだ。
 だけれどそれは紗綾が体力的に無理だとごねたせいでもあるし、瑠璃は組織の中でよく面倒を見てくれたこともあり、今では彼女を責めようという気にはならなかった。
 まぁ、彼女が『羽蝶』に目をかけてもらっている、というだけで妬むような人間も、ここには沢山いた訳ではあるのだが。
「待ちなさいよ、『龍玉』」
 ノートとペンを手に実験室をでようとした彼女は、冷たく呼び止められて足を止める。
「どうかしましたか、『斑猫』」
 『勇魚』とパートナーを組んでいた研究員。『勇魚』のあやふやな態度もあまり好きではないが、明らかな敵意を受けるのも、気持ちのいいものではない。
「このバッファーボトル、動かしたのあんたでしょ。ちゃんと元あった場所に戻してくれないと、こっちが困るんだけど?」
「残念ですね、今日は使ってません」
「そうやって言い逃れるつもり? いつまで経っても実験アシスタントから抜けれない癖に」
 彼女に悟られないように『龍玉』は心の中で溜息をつく。
 正確には抜けられないのではなく抜けていないのだが、そんな些細な違いなど、自分の能力を見せつけることしか知らない彼女には理解できないだろう。
「生意気。『羽蝶』の側にいられるからって、調子に乗らないでくれる? 目障りなの」
「……『羽蝶』の方が年下でしたよね。あなたは年下に自分を認めてほしいんですか?」
「『羽蝶』といい『龍玉』といい……っ」
 簡単に挑発しただけだと言うのにきっと睨みつけられ、『龍玉』は冷めた表情で『斑猫』を眺めていた。
 同時に頭のどこか片隅で納得する。彼女はこの組織に、誰かに、認めてもらおうと必死になっているだけなのだと。だからこそ、この組織に執着していない『羽蝶』や『龍玉』とは相容れず、二人が着実に成果を出していることが苛立たしいのだと。
「不器用な人ですね。そうやって執着するから、『羽蝶』は逆に離れていくと言うのに」
 ぽつりと呟けば、ばしっと頬を叩かれる。
「『斑猫』?」
 不安そうな『勇魚』の声。彼女と共に入ってきた『羽蝶』。彼女は『龍玉』に無言で大丈夫かと問いかけ、『龍玉』はにっこりと笑って頷いた。
「研究者の仕事は研究することだ。ただ結果を出すことだけを考えろ。『覇王樹』もお前の行動は目に余ると言っていた……どういう意味か、分かるな」
「あたしを脅すつもり……? 魔術師と呼ばれたあんたも、やっぱり最後に頼るのは科学じゃなくて権力なのね。ばっかじゃないの。あんたがどれだけすごいのかは知らないけど、やっぱり大したことないんじゃない。
 ばっかみたい。ここの人間皆があんたのことを崇拝しちゃってるってのに、その崇拝対象者はただの人間とか、すっごい笑える」
 勝ち誇ったように彼女はまくし立てるが、変わることのない『羽蝶』の表情に、逆に不機嫌になる。
「あんた……っ」
「やめてよ『斑猫』」
 『羽蝶』に掴みかかりそうな勢いの彼女を止めたのは、珍しく『勇魚』だった。
「『羽蝶』も『龍玉』も用事あるんでしょ? 行ってくるといいよ」
 『羽蝶』は無言で頷いて『龍玉』を促した。背後から聞こえてくるのは、ヒステリックな『斑猫』の声だ。
「……あの」
 無言で隣を歩く『羽蝶』に恐る恐る『龍玉』は声をかける。
「そんなに『勇魚』のことは信頼できないのか。彼女なら大丈夫――信じてやるのも、彼女の力になる。それに」
 ――自分になにかあったら、彼女を頼りなさい。
 言われた言葉を瞬時に理解できず、『龍玉』は唖然とした。
 今までここの組織の中の人間は誰も信用するなと言ってきたと言うのに、一体何があったというのか。否、これから『羽蝶』は一体何をしようとしているのか。他人を頼れなど、まるで自分がどこかに行ってしまうようではないか。
 そこまで考えて、『龍玉』ははたと気付いた。
 一度逃げ出しておきながら、『羽蝶』が組織に戻った理由。連れ戻されたことになってはいるが、連れ戻されたことにして戻ってきたのだ――彼女の意思で。それは組織の中にいた方が都合がいいから。恐らく本当ならもう暫く外にいたかったのだろうけれど、そこまでの時間は稼げなかったのだろう。それは、組織側が彼女に戻ることを強要したからだ。
 『羽蝶』がやりたがっていること。それはもしかしたら彼女自身の命すらも危うい――そうだ、彼女は終わらせようとしているのだ。この組織の暴走を、
 そして、この組織の存在を無に――



創作裏話
月影草