彼らの辿る道



 代々、神武は清舞の末の子を跡継ぎとするその風習を、これほどまでに恨むことになろうとは思いもしなかった。
 思い返せば、自分はどんな子供であっただろう。少なくとも、この子のように聞き分けのある、おとなしい子供でなかったことは間違いがない。
 神武の名を継ぐことを定められた、清舞の末の子。彼女は良く笑う。否、彼女は笑顔しか見せない。悲しみも怒りも。一度たりと見せたことがない。真っ直ぐな瞳は、全てを理解し受け入れてしまっているような、穏やかな光を常日頃から湛えている。
 そんな子供に、どうして神武の名前を背負わせなければならないのだろうか。そう思うと、心がずきりと痛んだ。
「!!」
 舞の稽古中、足がもつれたのか転んだのを見て、私は彼女の疲れをようやく知った。気付けば日も高く昇っているし、幼い子の体力ではそろそろ限界であろう。いや、もっと早くに切り上げてやるべきだったのだ。先に気付いてやれずにここまでの無理をさせてしまったのは、私の落ち度だ。
「雅沙羅。お茶にしましょう」
 すぐに立ち上がってやり直そうとする彼女をそっと制し、私は立ち上がった。
 「はい」と笑顔で頷く彼女。完璧主義なこの子のこと、きっと内心では練習を続けたいと思っているのだろう。
 この子は本当に「自分」をよく殺す。今でこそそれは完璧ではないけれど、数年も経てば自分の本心を全て隠しきるようになってしまうのではないか。そして、「神武」の名はそれを、この子に更に強要する。
 もしも選べたのならば、この子を後継者に指名などしなかったというのに。
 ため息がひとつ、零れた。
「音桐様、やはりもう一度」
「明日ね」
「はい」
 ひとつ頷くのを確認して、私は障子を開ける。柔らかな春の日差しが、暗い室内に馴染んだ目に眩しい。縁側に一歩踏み出した雅沙羅が、暖かな春の風にふと顔を上げる。微笑んで、横に立つ私を見上げた。
「音桐様。山桜が丁度見頃のようですよ」
「そう」
 今私が「春風」と認識したものは、どうやら霊の意識であったらしい。恐らく彼らが、雅沙羅に教えたのだ。
 いつからかは分からないけれど、この子は霊というものを感じているようで、あぁ、もしかすると霊だけでなく人間の根幹すらも感じ取っているのかもしれない。他人に見せることのない、負の感情すらも。ならば、この子が誰かとの衝突を避けようとするのも、そして実際に避けられるのも、納得できよう。
「お友達を呼んでいらっしゃい、雅沙羅。今から見に行きましょう」
「はい」
 その表情を子供らしく輝かせ、彼女は嬉しそうに大きく頷いた。そんな彼女が勝手口を回るのを見送って、私は再び空を見上げる。
「どうかあの子に、ご加護を」
 雅沙羅は暑がりもせず、寒がりもしない。感覚が麻痺しているのだろうかと疑いもしたけれど、暫くして彼女の周囲は常に一定の気温であることに気付いた。それこそが、あの子が守護されている証拠であろう。
 それでも願わずにはいられない。他人を優先させることしか知らないあの子が、穏やかな日々を過ごせますようにと。
 それが無理ならばせめて、あの子が世界に絶望せずにすみますように、と。

「こんにちは、音桐様!」
 息を弾ませ駆けてきたのは、柳原家長女の千秋。その後ろを同じく走ってきた雅沙羅は、私の顔を見てにこりと笑った。
 快活な千秋と物静かな雅沙羅の二人は性格が正反対ながら気が合うらしく、同い年ということも手伝って良く遊んでいるようだった。
「いらっしゃい。雅沙羅、お友達は一人でいいの?」
「はい。開けた場所ではありませんので、大人数で行くのには向いていないかと」
 子供にしては行き過ぎた配慮に苦笑せざるを得ない。どうしてこの子はそんなに気を遣わずにはいられないのだろう。子供らしく過ごさせてやれなかったことが、心苦しい。
「雅沙羅が連れて行ってくれる所って、外れないから楽しみ」
「そうね。じゃあ行きましょう。案内は任せましたよ、雅沙羅」
「はい」
 違う。正反対だからではない。千秋は持っているのだ、雅沙羅が求めたものを。自分の不思議な能力に怖じ気づくことのない人物を。そして、彼女に同情心を抱くことなく接する人を。
 良かったと、私は心の底から思う。
 もし雅沙羅が普通の人としての人生を望むのならば、彼女の持つ能力は足かせにしかならないだろう。けれどもし、彼女の持つ特殊な能力も含めて彼女を認めてくれる人がいたら? その存在は雅沙羅にとって大きな助けとなるはずだ。
 先導しながら千秋の話を楽しそうに聞いていた雅沙羅が、何故か突然立ち止まる。その瞳にあるのは、戸惑い。
「どうしたの、雅沙羅」
「人が。ですが、大丈夫そうです」
 何を感じたのか、雅沙羅はにこりと笑う。
「え、なになに? 先に来てる人がいるの?」
「そのようです」
 このような山奥に、先客? それとも通りすがりの旅人でもいるのだろうか。雅沙羅の言葉からは分からず、私は少し首を傾げた。雅沙羅がどこまで知っているかも分からない為、訊ねることもできない。
「少なくとも敵意はありません、音桐様」
「音桐様ってば心配性ー」
「それも二人を守る為です」
 促せば、雅沙羅は再び歩き出す。心なしか、彼女の足取りは軽い。
 もしかすると、誰がこの先にいるかもこの子には分かってるのかもしれない。あまりに特殊すぎる自分の能力を隠す為に言わないだけで。
 と、風に乗って微かに子供らしき声が聞こえてくる。
「きれいだねー」
「きれいだね、じゃありませんよ! どうするんですか、道に迷ってしまって、帰れるんですか?」
 風に乗って聞こえてきた少年と少女の声には聞き覚えがある。それは恐らく、雅沙羅も同じだろう。
 ふと思い出されるのは、今年の正月、十になった雅沙羅を連れて宮に挨拶に行ってきたときのことだ。同じく十になった皇太子殿下は、ずっと雅沙羅を目で追っていなかっただろうか。
 木々が途切れ、視界が開ける。
 ゆうゆうと草を食む一頭の栗毛の馬。呑気に咲き誇っている桜を見上げる少年と、涙目でおろおろしている少女。
「−−様。灯(ほたる)殿」
 そっと雅沙羅が少年と少女の名をそれぞれ呼ぶ。二人がはっとしたように、こちらを見た。
「−−様って」
 名を聞いた千秋が、慌てて頭を下げる。
「え? いや、僕はその、そんなつもりは……」
 千秋に頭を下げられたことに、彼の言葉は尻窄みだ。
 この子と雅沙羅は本当に良く似ている。二人とも、望まない身分に苦しんでいる。
「そのような礼は不要ですよ、千秋。彼はお忍びで来ているのですから」
 私の言葉に彼は嬉しそうに頷く。千秋も、恐る恐る顔を上げた。
「ところで−−殿。こちらにいらっしゃる理由をお伺いしてもよろしいですか」
 にっこりと笑顔で問えば、柔らかく微笑んでいた彼の表情が、一瞬にして引きつる。近くに灯しかいない状態を見れば分かる。彼は本当に誰に何も告げず、宮から抜け出してきたのだと。
「お花見をしたかった、んです」
 そっと細い声で告げたのは、彼の付き人である灯。そっと馬を撫でていた雅沙羅は、それ以上の答えを知っているからか、笑顔を崩さない。
「え、でも宮の近くにはもっと良い場所があるんじゃないの?」
「……」
「……」
 純粋な千秋の言葉に苦い笑みを浮かべて、二人は黙る。そう、ここから宮までの道のりに、一体何本の桜があり、満開の花を見せていることだろう。それに、桜を見るだけならばお忍びでなくて良いのだ。
「そんなに雅沙羅に会いたかったの?」
 私が静かにたずねれば、彼はぱっとその頬を赤く染めた。そんな分かりやすい反応の横で、雅沙羅なんて表情も変えないけれど。
「あ、それ分かる! 雅沙羅といると、なんか安心するんだよね!」
「お茶にしませんか、音桐様」
「そうね。手伝ってくれるかしら、雅沙羅」
「はい」
「お茶の準備ならば私が……」
 持ってきた包みを手近な石の上に乗せて開いていると、別の意味で顔を真っ青にした灯が飛んでくる。
 神武の身分は陛下のそれに並ぶ。そんな身分の人に準備などさせられない、との思いからだろう。けれど、雅沙羅は笑顔で彼女を制した。
「今の灯殿は客人ですので、そのようなことは」
「……はい。ありがとうございます」
 ふと強く吹いた一陣の風に、桜の花びらが舞い散った。その風が冷たいと、そう感じられたのは何故だろう。
 こんなにもこの子たちは幸せそうに見えるというのに、この漠然とした不安が消えないのは、何故だろう。
「音桐様」
 茶器を受け取る為に近寄ってきた雅沙羅が、何かを感じ取ったのか、小さく囁いた。
「彼も、私も。最後は幸せです」
「……え?」
 経過がどうであれ、最後は幸せに。
 それは恐らく、霊たちが彼女に見せた未来。
 どうあってもこの子たちは、穏やかに過ごせないのか。
 それを私は——どうしてやることもできないのだろう。



Eternal Life
月影草