葛藤の果て



 床に日本地図を広げてにらめっこしている桜の背後に、雪風はそっと近寄った。なにやら真剣に探し物をしているようで、雪風のことなど全く気がつかない。
『東京の場所を言ってみろ、お前』
「うわっ、そのくらい分かるもん、雪風の意地悪っ!」
 びくりとしつつも一息にそこまで言い切れる桜に、彼は感動すら覚えた。
『じゃあお前、何探してんだ? 旅行先か? なら俺が秘境を教えてやるぞ』
 そうかもしれないけど、と桜は矛を収めるが、その顔には明らかに不服の色があった。
『大体、お前はもうちょい身体動かした方がいいんだっつの。足腰なまってるだろ。今度の週末は山登りにでも行くか? ここの近場だとな』
「待ってよ、待ってってば! 行かないから。大体旅行計画じゃないから」
『ん? じゃあお前、なんで地図なんて見てんだ?』
 雪風の素朴な疑問に、桜はうっと言葉を詰まらせた。うーだとかあーだとか暫く視線を彷徨わせていたが、観念したのか彼女は口を開いた。
「……雅沙羅の故郷って、どこなんだろうと思って」
 ためらうように告げられた言葉に、雪風は納得した。
 彼自身も詳しいことはよく知らないのだが、確かに雅沙羅はよく故郷近くに立ち寄っているように思う。故郷にいる本家の人間に、様々な書類の手配を頼んでいる、といった話だったように思うから、彼が特に気にしたことはなかったが。
『……ん?』
 雪風は首を傾げた。
 彼が知る限り、雅沙羅の家の本家筋は、雅沙羅の代で途絶えているはずだった。分家筋ならば残っているかもしれないが、それを彼女が本家と呼ぶだろうか。
「だって雅沙羅、しょっちゅう帰ってるじゃない? 自分の故郷。雅沙羅の故郷ってどこなんだろ。雪風は知ってる? そんなに良いところなのかな」
『んー、まぁ、良くも悪くも田舎だな。山の中だぞ? 都会っ子のお前にゃ無理だ』
 ふぅんと生返事に近い返事をするあたり、桜は雪風の言葉を半分くらいしか聞いていなかったらしい。突っ込んでやろうかと彼が思う前に、彼女は言葉を重ねた。
「雪風は知ってるんだ。雅沙羅の故郷」
『まぁな。当時からの知り合いだし』
「じゃあ雪風知ってる?」
 雪風は雅沙羅の故郷に辿り着いたことはあるが、現在の地名はおろか、正確な位置すら知らない。桜が場所を訊いてくるのだと思った彼は、どの辺りだっただろうかと床に広げられた地図を盗み見る。確か、京都御所に近かったはず――
「……私の故郷」
『は?』
 予想外の質問に、雪風はあんぐりと口を開けたまま、桜の顔を見返した。
 桜の故郷。それはすなわち。
「私も雅沙羅みたいに覚えてたら、そんなに頻繁に帰りたくなるものなのかな」
 雪風が答えられずにいるのを、知らないものだと解釈したらしい桜が、地図を突きながら諦めたような口調でそんなことを呟く。
 けれど雪風は知っていた。知っていて、言えなかったのだ。以前の記憶を失ったままでも幸せそうにしている桜に、彼女の故郷のことなど。
「あれ? そう言えば雅沙羅、また故郷に帰っちゃったんだよね?」
『ん? あぁ』
 故郷近くにしかいつも行っていなかった雅沙羅が、「故郷に行く」といったので驚いたのを、彼も覚えている。
「今回は華鏡も連れていったんだ。珍しいね。大体雅沙羅が里帰りする時って華鏡、私たちと一緒なのに」
『郷里の母ちゃんに、結婚の報告でもするんじゃねぇの?』
「ようやく! まったくもー、遅いよね」
 手を叩いて喜んだ桜だったが、目を逸らす雪風に不穏な空気を感じたようで、再び地図に視線を落とした。
 雅沙羅が、今まで立ち寄らなかった故郷に帰る意味があるとすれば。
 そこにあえて華鏡を連れて行く意義があるとすれば。
 それは恐らく、神武雅沙羅であった過去と、諒闇雅沙羅である現在に決着をつけることに他ならないだろう。そして彼女は覚悟しているはずだ。それが綺麗な終焉にはならないだろうことを。
「……私たち、このままじゃいられないもんね」
 雅沙羅の故郷に何があるのか、今の桜は知らないだろうに、そこが特別な意味を持つことはなんとはなしに悟っているらしい。彼女は地図を、否、地図のその先を見つめたまま小さく呟いた。
 そのままあげられた眼差しには、今まで見たことのない強い決意の色がある。あの時、「お姉ちゃんは自分のものだ」と言い切った年端もいかない女の子の表情そのものだ。
 そんな桜の表情に、変化に、雅沙羅はいつも一緒にいる自分よりも早く気がついたというのか。だから今動いたのかと思うと、彼女の聡さには舌を巻くより他にない。
 何も言えずにいる雪風に、桜は告げる。
「雅沙羅の故郷、私も見てみたい。あのね、私ね、雅沙羅に謝れてもいないの。雅沙羅の人生狂わせちゃったの、私でしょ? 雅沙羅が今もまだ『生きて』るのって、私のせいで生死を彷徨ったんだよね? なのに、いつもタイミング逃しちゃって……」
『それは違うな』
 雪風も、雅沙羅と桜の二人の状態が異様であることは重々承知しているし、桜の言うことも一理ある。しかし、彼女があんなことを仕出かさなかったからといって、彼女がここにいないとは限らないのだ。
 二人の日常があんな結末を迎え、彼女がそれを望んだ以上、異常であろうがなんであろうが、二人には何気なく続いて行く日々を味わってほしいと雪風は願ったし、実際に続いている、幸せそうな毎日を壊したくなかった。
 決して戻らないと思われた二人の仲が戻っていくのを見ているのは、嬉しかった。
 だけれども雅沙羅は一つだけ間違いを犯したのだ。そしてそれを正さなかった華鏡や雪風も同罪である。
 当時の桜を傷つけまいとして言わなかった真実が、いまになって二人の縁を切ろうとしているようにしか、彼には思えなかった。
『違う。雅沙羅がまだここにいるのは、それをあいつが選んだからだ。お前のせいじゃねぇよ』
 雪風の断言に、桜はどこか虚ろな目を向けた。達観した、諦めにも見えるその表情は、近頃のなってよく見る気がする。
「そっか。雪風は知ってるんだ、その辺りの事情。雪風は、だからいつもついてるの? 私が、雅沙羅にこれ以上の危害を与えないように」
『んなこと考えてたのかよ、お前はっ! お前は、お前は、俺たちにとってそんだけ大切な存在なんだよ、だからあいつだって、雅沙羅だって、お前のこと、どんだけ必死になって守ろうと……っ!』
 彼が物に触れられるのならば桜の胸倉を掴んでいたであろう勢いと語気に圧され、呆気にとられながらも桜は素直に「ごめん」と謝った。
『あいつの故郷の場所、ちゃんと把握してたら今すぐに連れてってやるのにな、ごめんな、俺、辿り着ける自信ねぇ』
「雪風ですら辿り着けない田舎って、どんだけ田舎なの?」
『すんげぇ田舎』
「そうなんだ……」
 少し和んだ空気にほっとしつつ、雪風は再び、桜と一緒になって地図を覗き込んだ。すると、京都から少し南下したあたりを指さされる。
『あぁ、大体その辺なんだが。なんだ、知ってんじゃねえか、桜』
「私じゃないよ?」
 桜の否定に、雪風が指から腕、そしてその人物の顔へと辿っていけばそれは、この場にいないはずの人間だった。
『おま、ちょっと、何やってんだよ!?』
『さっき来たんだけれども、二人とも真剣に話していたから、口を挟む間がなくて』
 一体いつからいたのか。華鏡の少し苦い表情を見るにおいて、それを訊くのは野暮であろう。
『故郷に長居するつもりは雅沙羅にはなかったんだけど、ちょっと事情があって長引きそうなんだ。だからよければ二人にも来てほしい。そういう話なんだけれども……今の話からすると、確認するまでもなさそうだね』
 ぽかんと口を開けた桜が、一瞬で表情を引き締めると「うん」と頷く。うろたえたまま、まだまともな返答をできずにいる雪風に向けられた華鏡の表情は、寂しげだった。
 彼も気づいているのだ。二人の平穏な日々に終止符が打たれようとしていることに。
『神武雅沙羅の名において、桜、雪風、君達二人を神武の里に招待しよう』
「ジンム、アサラ?」
 改めて告げられた言葉に、名前に、桜は目を丸くして雪風を見やる。雪風はついに来たかとため息を吐いた。
 百年以上語られることのなかった神武雅沙羅の名が出てくることは、同じく百年以上封印されたままになっていたあの記憶が紐解かれるのと、ほぼ同義だ。
『あのなぁ、華鏡』
『突然の話で申し訳ないとは思うんだけれど、僕は雅沙羅の決断を信じようと』
『違ぇよ』
 華鏡の言葉をきっぱりと遮った雪風は、今ひとつやる気のないため息を吐いた。
『なんで神武を名乗るあいつが、お前を使いっ走りに使ってんだよ。逆だろ、逆っ!』
 苛立ちまぎれに雪風が突っ込めば、華鏡は一瞬目を瞬かせた後、寂しげな笑顔を見せた。
『確かに逆かもしれないね。でも、これで多分合っているんだよ。僕は捨ててしまったけれど、彼女は戻ろうとしているんだから』
 彼が寂しそうにしているのは、雅沙羅が自分を置いて先に行ってしまうような、そんな不安もあるのかもしれない。
 戸惑いと怯えの色を見せる桜に、雪風はあっさりと手を差し伸べた。
『俺は雅沙羅を信じてる。だからお前もあいつを信じろ。
 来い、桜。お前とあいつの過去を知りてぇんだろ? ――大丈夫だ、俺たちが、俺たち三人がついてる』
「うん、ありがと」
 触れ合えない手を握り合い、桜は微笑んだ。



Eternal Life
月影草