『止めろ、結、止めるんだ……っ!』
 制止する青年の叫び声が聞こえた訳でもないだろうに、長身の少女がゆっくりと振り返る。おっとりとした動作や表情は見慣れた物だが、茶色の服装は見慣れない。あれから一度も帰っていないのか、表情にも疲れが見える。
 共にいた小柄な少女は地味ながらも華美な衣装をまとっていた。近くには御所がある、恐らく、そこの者だろう。
 なす術もなく青年が手を伸ばす。
 小柄な少女が、驚いて塞がらない口に両手を当てる。
 そんな彼らの前で長身の少女は、ただ笑顔で抱きしめた。両手に握った小刀を、自身に目がけて走ってきた勢いそのままに突き立てた、年端もいかぬ女の子を。
 まるで目線を合わせるかのごとく折られた膝。
 女の子に向けられた、いつもと変わらない穏やかな笑顔。
 その子を撫でる穏やかな手つきは変わらずとも、浅く、速くなっていく呼吸は隠せない。

「いや、いやああぁぁあぁぁぁーっ!!」

 それは、誰が上げた悲鳴だったのか。



傷跡



 あれから、二週間は経っただろうか。
 身体を丸めて布団にくるまっている結の枕元に、雪風はどかりとあぐらをかいた。抱きかかえられた布団に埋められた表情は見えないが、呼吸は浅い。彼女が熟睡できていないのは日の目を見るよりも明らかで、その原因は彼にも分かっている。
 この子は暴走してしまっただけなのだ。
 敬愛していた少女に再び会いたかった、それだけなのだ。
 ただ、その手段を間違えてしまっただけで。
 しかしそれは決して犯してはならない間違いで、気付かなければ良かったものを、幼いながらに感じ取ってしまったのは不幸以外の何物でもない。
 そう、この子は気付いてしまったのだ。目の前で雅沙羅が力なく崩れ落ちたあの日に凍り付いた、あの表情は忘れられそうにない。
 一体どれだけ彼女たちの人生を狂わせれば気が済むのか。怒りたいのに、思い返される雅沙羅の全てを真っ直ぐに受け止めてしまった言葉のせいで怒れない。まったくもってとんだお人好しに関わってしまったと、悶々とするだけだ。
「ごめんなさい」
 小さく呟いて、結が寝苦しそうに寝返りを打つ。眉間に皺を寄せ、涙に濡れた顔が露わになった。
『お前は謝んなくていいんだよ』
 だって彼女は、ただ巻き込まれてしまっただけなのだから。きっと雅沙羅ならば、彼女には責任がないのだと、彼女の責任も自分にあるのだと、そう言うことであろう。
 幽霊となってしまった雪風には結に触れることはできないが、せめてもの慰めにと、頭を撫でる仕草を繰り返す。動作を真似しているだけでは、苦し気な表情はやはりと言うべきか、和らがない。
「ごめんなさい……」
 閉じられた目から、新たに涙が一筋こぼれ落ちる。
 そこにあるのは良心の呵責だ。暴走していた頃に自身が仕出かしてしまったことに対する罪の意識が、この幼い女の子を蝕んでいるのだ。
『だから、お前に非はねぇんだって。あの時お前も見ただろ、あいつはお前を許した――』
 彼女に届かないと分かっていながらも続けた言葉を、雪風ははたと止めた。
 確かに結は雅沙羅の微笑みをしっかり見ていた。だから彼女には、雅沙羅が怒ってなどいないことを十分に分かっているはずなのだ。
 むしろあの時雅沙羅が許してしまったからこそ、結は自分のことを許せずに苦しんでいるんじゃないのだろうか。あの時彼女が突き放していれば、結はそれを言い訳にして罪の意識から逃れられたのではないのだろうか?
『あいつが、あのお人好しがお前のこと許さねぇわけねぇだろ。ってぇか、お前が悪いってんなら、こうなること分かってたのに止められなかった、見てるしかしなかった俺なんてどーなんだよ。誰かに憑依して力づくでもお前を止めるべきだったのか?』
 雪風は緩く首を振った。過去になってしまった出来事は変えられないのだから、何が悪かったのかだとか、どうすべきだったのかなんて考えていても仕方がない。それよりも考えるべきは、これからどうすべきだ。
 あの日から今日までの二週間、実は自殺願望があるんじゃないかと思うくらいに無頓着な、旅とも言えない程無計画で無謀な旅をこの子は続けてきた。子供の一人旅ということで心配し、手を差し伸べてきた人々がいなければ、既に野垂れ死にしていたかも知れない。今晩だって、見かねた人が一晩の宿を貸してくれたのだ。
 そんな生活を二週間も続けてこられたのは、運が良いからなのな、何かがこの子を守っているからなのか――守護と言って思い描かれるのは雅沙羅の顔ばかりだ。巫女特有の不思議な力かなにかで結を守ってくれている可能性は多いにありうる。
 ただそれは、過信すべきではない。
 彼女が生きているのかどうかすら、定かではないのだから。
 彼が視線を結に戻せば、彼女は音のない悲鳴と共に跳ね起きたところだった。
「っ!!」
 荒い息を正しながらその小さな手を見つめているのは、あの日人を刺した感触を思い出してしまったからだろう。ならばこの子は同時に思い出しているのだろうか。あの時の雅沙羅の、あの穏やかな表情を。
『大丈夫か、結』
 声をかけてみるも、やはり返事はない。結はただ布団の上にうずくまり、かたかたと小刻みに震えているだけだった。
 いくら道すがら様々な人に助けられて来ているとはいえ、あの日からずっとこんな調子でこの小さな身体は保つまい。しかし、だからといって彼にできることは心配することだけなのが口惜しい。
 あれから一日でもこの子がまともに眠りについた日があっただろうか?
「行かなきゃ……」
『雅沙羅の所にか』
 あんなに暴走する程だったというのに、今となっては気が重いらしく、自分を奮い立たせようとしている姿が痛々しい。何度手の甲で涙を拭っても、溢れてくる涙は止まらない。
「行かなきゃ……」
 呟きながら嗚咽を漏らし、唇を噛んだ。
「もう嫌だ……誰か助けてよ……」
 それが、恐らくは本音だろう。雪風は居ても立ってもいられずに、結と向き合うように座り、彼女の顔を覗き込んだ。――それが、無駄な行為だとは分かっているけれど。
『大丈夫だから。あいつにならまた会えるから。だからそんなに泣くなって』
 声が聞えずとも気配は伝わったのか、涙に濡れた顔を上げて結は目を瞬かせた。
『あいつはそう簡単にお前を一人にするような奴じゃなかっただろ。知ってんだからな、ぴーぴー泣いて甘えてたお前に、あいつ、嫌がりもせずにずっと付き合ってたの。それにお前だろ、あいつのお人好しっぷりを一番良く知ってんのは』
 不思議そうに辺りを見回していた結だったが、こくりと小さく頷くと再び布団の中に横になる。少し安心したのか、暫くすると今度は規則正しい寝息が聞こえてきた。それを見て、雪風も安心した。
 ふぅ、と彼は結の布団の上から下りると、意味もなく天井を見上げた。
 あんなに幸せそうにしていた二人。彼女らのささやかな幸福に彩られた日常が、ここまで完膚なきまでに破壊されることなど、あの時は思い描きもしなかった。けれど最後に会ったその時、雅沙羅は既にこうなることを予測し、覚悟していたようにも思うのだ。
 ならば、と彼は期待する。
『生きててやってくれよ、雅沙羅。こいつにはまだお前のことが必要なんだから』
 刺された彼女の無事を確認することも、誰かに助けを求めることもせずに結を追うことを優先した雪風を、雅沙羅は責めるだろうか? 
 否、彼女に彼が見えていたとしたら、彼女は恐らく彼を見送ったことだろう。『結を頼みます』との一言を添えて。
 彼女自身が許すだろうとは言え、雪風は彼女を見捨てたのだ。その彼が彼女の生存を願うなど、身勝手すぎるかもしれない。
 それでも――雪風には他に何を願って良いのか、誰に頼って良いのか分からなかった。自分自身よりも幾分年下とはいえ、雅沙羅ならばこの結をどうにかしてくれるだろうと思うのだ。言い訳として付け加えるのならば、雅沙羅と一緒に居た少女が、きっと助けを呼んでくれているに違いないと、雪風は信じている。
『ごめんな、結。何もしてやれなくて。でも雅沙羅は一緒に探そう、な?』
 直接手助けしてやれないことが、もどかしい。



Eternal Life
月影草