帰れる場所に



 鳥居の下に立つ彼女は、青く晴れ上がった空に、すっとその目を細めた。
 最後に彼らと言葉を交わしてから、一年以上も経つ。彼らは、彼女のことを忘れてしまったのだろうか。
 ならばそれでいい。
 彼らには彼らの、日常があるのだから。
『雅沙羅。どうかしたのか?』
 穏やかなその声に、雅沙羅と呼ばれた彼女はゆっくりと振り返る。
 彼女が唯一主従関係を築いた、彼。信じて、疑うだなんて考えも及ばなかった、彼。どんな時も常に傍らにいてくれた心強い存在である、彼。
『いいえ、何も』
 そう、と相槌を打って、彼は彼女の横に並ぶ。
 眼下に広がるのは、あの頃から変わらず山に囲まれた小さな町。昔も、今も、神武、柳原の両家が「治める」町。
『ですけど……今日は来てくれそうな、そんな気がします』
 誰が、とは告げずに、雅沙羅はただにこりと笑う。それだけで、彼には伝わった。
『来てくれるといいね』
 自分たちには見守ることしかできないけれど。
 否、自分たちには見守ることしかできないからこそ。


 息をきらせながら、二人の少女が走っていた。
 まだ寒い季節だと言うのに、彼女らの額には汗が光る。恐らく走り始めてから大分経つのであろう。
 二人の進行方向に見えるのは、朱色の鳥居。
 前を先導するように走っていた彼女は目前に迫った長い石段をちらりと見上げ、よしと気合を入れると段を抜かしながら勢い良く駆け上る。
「待って、千秋……」
 後に続いていた彼女は疲れに、石段の手前で立ち止まった。この石段まで駆け上がろうとするなんて信じられないと、その表情が告げている。
 千秋は桜の言葉に、くるりと振り向いた。
「遅いよ、桜」
「だって、もう限界……」
 ぜぇぜぇと荒い息を繰り返す桜に、仕方ないなと千秋は上った段から下りてくる。
「もう、桜ってば体力ないんだから」
「だって」
 と彼女は自分の背後を見た。
 今二人がいるところからは、彼女たちが走り始めた学校を見下ろすことができる。ということは、だ。
「学校からここまでずっと上り坂だったんだよ? しかも神社って山の上だし。もう無理限界」
「そんなこと言わないの。この石段上ったらすぐなんだから」
 千秋に言われ、桜は石段を見上げる。長い。あまりの長さに、溜息しか出ない。石段を上ったらすぐと言われても、その石段が長いのだ。
「雅沙羅に会いに行くんでしょ? 報告しに行くんでしょ?」
「……うん」
 千秋に更に促され、ためらいがちに桜は一歩踏み出した。

「さて。雅沙羅はいるかなー。『いでよ、雅沙羅』なーんてね」
 どうして毎度毎度この石段を駆け上る羽目になるのか。自問自答していた桜は、茶化す千秋に疲れも忘れてぷっと吹き出した。
「何それ、どんな召喚よ」
「え、駄目? じゃあねぇ……」
『普通に呼んでくださって構わないんですよ?』
 にこやかな表情で神社の裏手から出てきた雅沙羅に、千秋がちっと舌を打つのが桜には聞こえた。
 一体放っておいたら何を言い出すつもりだったのか。恐ろしくて彼女には突っ込むこともできない。
「それじゃ、あたしがつまんないじゃない」
『お前の娯楽に雅沙羅を使うな』
 ぶうたれた千秋は真っ当な突っ込みにこれは論破できないと思ったのか、上目遣いに雅沙羅を見遣った。
 理論で負けそうなら、感情論に走るのみ。
「雅沙羅は嫌? こういうの、嫌い?」
『いいえ、楽しいではないですか』
『こんのお人好し』
 やはり人を咎めようとしない雅沙羅に、参道から外れた隅の方に座ったまま、雪風が吐き捨てる。言い方こそきついが、それは彼らの間にしっかりと築かれた信頼関係があればこそ。
『やっぱり来てくれたんだね』
「やっぱり?」
 雅沙羅の傍らにその姿を現した華鏡の言葉に、桜は小首を傾げる。「やっぱり」だなんて、まるで二人が来るのを知っていたような口ぶりだ。
『雅沙羅の直感。おっそろしいくらいによく当たるよな』
「そーそ。雅沙羅ってばヤマ張るの得意だったよね。あたしそれに何度助けられたことか」
『は?』
 千秋の一言に、その場の空気が凍りつく。穏やかな空気を漂わせているのは言い出した本人である千秋と、話題に上っている本人である雅沙羅の二人だけだ。
『あぁ、ヤマを張っていたというよりは、過去問からその年に出そうな問題を推測していただけですけど』
「ちょっと待って、雅沙羅ってばそんなことやってたのーっ!?」
 桜の絶叫に、今度は雅沙羅が首を傾げた。それはまるで、桜が知らなかったことを知らなかった、とでも言うかのようである。
『余裕だけはありましたからね。暇なら問題を予測でもしていろと勝に言われまして』
『……それで素直に予測するなよ』
 雪風のぼやくような言葉に、もっともな意見だと華鏡は頷いた。
 知ってればもっと楽できたのにとがっくり落ち込む桜に、まあまあと言いながら千秋は彼女の横にしゃがみこむ。
「そんなことよりもさ、桜、雅沙羅に言うことあるでしょ」
「そうだったっ」
 がばっとその身を起こすと、桜は雅沙羅に向かってきらきらとした視線を向ける。その表情変化の素早さに、相変わらず忙しい奴だと雪風が呟いたのは、彼女には届かない。
「あのね、あのね……受かったの」
『大学にですか? おめでとうございます』
 雅沙羅の笑顔に、桜もつられたように笑う。雅沙羅が千秋に視線を向ければ、彼女もちょっとだけ嬉しそうに笑う。その理由は、簡単に察しがついた。
『千秋も、ですか』
「うん、同じとこ。ほら、すぐ近くの国立」
 おめでとうございますと雅沙羅は繰り返し、ふと不安気な表情になる。どうしたのだろうかと華鏡が彼女の視線を追えば、桜の顔が心なしか青かった。
『桜? 具合でも悪いのかい?』
 桜は華鏡の問いに、ううんと首を振った。じゃあどうして、と畳みかけるように尋ねようとする華鏡を遮って、雪風が立ち上がる。
『お前さ……常日頃から華鏡に言ってることだけど、そろそろ雅沙羅から離れろ』
「だって」
 彼の言葉は図星だったらいい。口ごもる彼女の瞳は既に潤んでいて、不謹慎ながらも面白そうに眺めていた千秋は邪魔になっちゃ悪いかな、と一歩下がった。
『あなたが望むのなら、いつでもいらっしゃい。私たちは変わらず、ここにいるのですから』
 ね、と暖かい空気に包まれて、桜はこくりと頷いた。

『いいのかよ、あいつ。そろそろ無理にでも離した方がいいんじゃね?』
 桜と千秋の二人を見送って、再び座りこんだ雪風が頬杖をつきながら言う。
『無理をさせるのはよくない。それに、大学に行こうとしている事実をほめてもいいと思う』
 ああそうですかと明らかに適当な返事をする雪風に、華鏡は苦笑する。
 雅沙羅を「失った」桜を、彼らはずっと見守ってきた。
 ふさぎ込んで、前に進もうとしなかった彼女は、次の一歩を踏み出そうとしている。それだけでも喜ばしいことではないだろうか。
『でも雅沙羅。あんなこと言ったらあいつ、毎日でも顔見に来るんじゃねぇか?』
『それはないと思いますよ。千秋が共にいるのなら、彼女がそれを許さない』
『そーいうもん?』
 疑いの眼差しを向ける雪風に、華鏡がにこやかに笑う。
『君は本当に疑り深いね。雅沙羅が信用できないとでもいうつもりか?』
『い、いや、そういう訳じゃねぇけど、だからお前その笑顔はやめろって何度言ったら……っ!!』
 いつもと同じ攻防戦を繰り広げる彼らをその場に残し、奥に戻りつつ雅沙羅がにっこりと微笑めば、暖かな風がふわりと吹き抜ける。
 春が、近い。





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Eternal Life
月影草