夢うつつ



 起きた時に人の気配がなく、桜は思わず声をあげるところだった。
 朝起きた時近くに誰もいないことが、こんなに怖いとは思わなかった。起きれば見える所にいつも雅沙羅が居てくれたのは、かなり気を回してくれていたからなのだろう。しかし今日はいない。そのことに桜の思考が停止する。
『起きたか』
「え、あ、はい、おはようございます……」
『全然早くねぇ』
「え、ご、ごめんなさい……」
 思考が停止していたところに気配もなかったというのに突然声をかけられて、桜はびくりと身体を震わせた。
『まぁまぁ。桜、早く食べにおいで。冷めてしまう』
「は、はい。今行きます」
 雅沙羅も華鏡も、そんなに気を遣わなくていいと桜には言ってくれているのだが、助けてもらってからまだ一週間。まだどうしても慣れずに緊張してしまう。
 緊張してしまう理由は、優しく丁寧な対応をしてくれる雅沙羅と華鏡に反し、素っ気ない態度を取り続けている雪風にもある。華鏡も雅沙羅も育ちが良さそうに見えるから、どうして二人がどこか粗野な印象を受ける雪風と一緒に行動をしているのか、そもそもどこで出会ったのか、何か裏があるのではないか、と勘ぐってしまうのだ。
 それに第一、彼らは何故。
『早く来ねぇと、俺が食うぞ』
「は、はい!?」
 雪風に急かされ、桜は布団を畳むのもそこそこに居間へと急いだ。よく考えてみれば雪風には食べられないのであるが、それはまだ桜にとっての常識ではない。
 火の入っていない囲炉裏の段には朝食が並べられているが、やはり雅沙羅の姿はなかった。
『まめだよなー、あいつ。出かけるのに、わざわざ朝食準備していきやがった』
 桜の向かい側に胡座をかき、頬杖をついた雪風がそんなことを呟く。
『あぁ、そうだ。雪風は多分言ってないと思うけど、雅沙羅はちょっと出かけているよ。でも、夕方には戻るから』
「そう、ですか」
 用事があったのならば仕方ないだろうとは思うし、毎日毎日桜が起きるまで隣で待っていてもらうのも気が引けるのは確かだ。それでも一人で食べるのは味気ない。なにより「人」はいるのに桜一人だけが食べるのは落ち着かなかった。目の前に座り、桜が食べているのをじっと見られていたら尚更だ。
 桜は視線を逃がすように部屋の隅で本を読んでいる華鏡を見つめ、ふと疑問が口をついて出る。
「華鏡、本、読めるの?」
『あぁ……頁が捲れないのだけれども』
「だったらこっちに……一緒に座ってくれれば、頁くらい捲ります、よ?」
 口調が崩れてしまっていることに気付いた桜が慌てて途中から敬語に直す様子に、華鏡は微笑んだ。恥ずかしさに頬が熱くなるのを桜は感じる。
『ならお願いしようかな。申し訳ないけれど、本の移動も……』
「はい、もちろんです」
 桜は一度箸を置き、華鏡の所まで本を取りに行く。開かれた頁に目を落とせば漢字ばかりが並んでいて、桜には何が書いてあるのか見当もつかなかった。
『いつもは雅沙羅と一緒に読むから、雅沙羅が捲ってくれるんだけれど』
 桜の横に並び、目の前に本を置いてもらった華鏡は、どこか嬉しそうにそんなことを言う。再び箸を手に取りご飯を口に運んでいた桜は、彼の言葉に目を瞬かせた。そして改めて本を覗き込むが、そこに並ぶのはやはり漢字ばかりで、そう簡単に読めるものではないように思う。
「雅沙羅も読めるんですか?」
『彼女は僕よりも得意なんじゃないかな』
 あっさりとした華鏡の返答に、桜は目を丸くした。
 簡単な読み書きならば、桜も教わったことがある。けれど華鏡が読んでいるような難しそうなものを桜が目にするのは初めてだった。華鏡の年齢も雅沙羅の年齢も知らないが、恐らく見た目からして桜とそう変わらないのではと思う。そんな二人がそんな難しいものを普通に読めるとは、衝撃だった。
「と、いうことは」
 もしかして、と桜の視線が今まで避けていた雪風へと向かう。
 彼は華鏡や雅沙羅のように育ちが良いようには見受けられないが、二人と行動を共にしているのだから漢文なんて実は簡単に読めてしまうのかも知れない。
 桜の反応は予想外だったらしい。見つめられた雪風はぽかんと口を開け、そしてふいと身体ごとそっぽを向いてしまった。
『お前、相変わらずちんたら食ってんじゃねぇよ。折角まだ温かかったってのに冷めちまったんだろ、どうせ。お前が遅いから』
「あ……ごめんなさい」
 開かれた頁を読み終わり、黙って待っていた華鏡の為に頁を捲ると、桜はご飯を口に運ぶ。彷徨った視線は自然と華鏡の本に注がれた。
『桜も本に興味がある?』
「え? いや、あの、興味というか、なんだろうっていう好奇心くらいなら……でも私、読み書きもそんなにできる訳じゃないですし……』
 彼には普通に出来ることが自分にはできないと公言するのが恥ずかしく、桜は頬を紅潮させ目を伏せた。しかしそれを華鏡が気にした様子はない。
『じゃあ、帰ってきたら頼んでみようか』
「頼むって、何をですか?」
 ごちそうさま、と桜は食器を置いて手を合わせる。冷めてもおいしかった、というよりも雅沙羅のことだから、冷めても美味しいように作ってくれたのだろうと思うと、その心遣いには感謝してもしきれなかった。
『雅沙羅なら多分喜んで教えてくれるよ。時間はあるんだから、ゆっくり学んでみるといいんじゃないかな』
「私が勉強……?」
『一人で寂しいなら、雪風も一緒に……』
『俺はやんねぇっ! そのくらいなら奥羽の奥地でも行ってやらぁ』
『そこまで嫌わなくても』
 桜には奥羽がどこかも分からなかったが、どうやら遠い場所らしいということは華鏡の苦笑いから理解する。
『一緒にやった方が楽しいしはかどるよ?』
『嫌だね。そもそも俺にゃ必要ねぇし、何処の世に死んだ後も勉強する奴がいるんだ』
『君は幽霊になってからも旅を続けているんだろう? なら死んでから勉強を続けている人だってどこかにはいるんじゃないのかなぁ。それに君が初めてになっても構わないことだし』
『勉強に時間割くくらいなら旅に出るね』
 何を言っても承諾する気配のない雪風に、華鏡は肩をすくめてみせた。困ったね、という割に楽しそうな表情の華鏡に、桜は思わず笑みをこぼす。
『あ、ようやく笑った』
「え?」
 華鏡に指摘され、桜は口元を押さえた。
『いいんだよ。いつも言っているけれど、口調も崩していいんだよ。ずっと敬語じゃ疲れるだろう』
「あ……はい」
 それ以上なんと返していいのか分からずに、桜は目を伏せる。

 この日は一日、本の頁を捲りながら雅沙羅の帰りを待った。たまに首を傾げつつ、たまに頷きつつ読み進めている華鏡は、本当に熱心だと桜は感心する。
『桜』
「はははいっ、ごめんなさい、今捲り」
『ううん、この文字を見て』
 ぼんやりとしていた桜は華鏡に名を呼ばれ慌てて頁を捲ろうとするが、彼はそれをそっと制した。そして一つの文字を指す。
「えっと……この文字が、何?」
 華鏡の意図が読めずに、桜の視線が華鏡と文字の間を行ったり来たりする。
『「桜」。君の字だ』
 言われ、桜は示された字をまじまじと眺めた。
 桜。
 春先に一斉に薄紅色の花を咲かせ、一瞬で散りゆく花の王。
 何かが違うと桜の直感が告げるが、何が違うのかまでは分からない。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい!」
『お帰り』
 帰ってきた雅沙羅は二人の声に迎えられ、そして一冊の本を囲んでいる二人の姿に、頬を緩ませた。
「今日は桜も読書ですか。でもその本は桜には難しいでしょう」
「私は頁を捲ってるだけ。さっぱり分かんないの」
『でも興味はあるらしいから雅沙羅、今度桜に読み書きを教えたらどうだろう』
 華鏡の提案に、雅沙羅を見る桜の視線が上目遣いになる。
 そもそも敵同士であり、熱で倒れたところを助けてもらった上にこうして生活までさせてもらえていることに負い目があるのだ。これ以上桜から何を頼めるというのか。
 ——本当ならば、故郷を、敬愛する「姉」を、探すのを手伝って欲しいけれど、そんな希望を口にすることは気が引ける。
「そうですね、今後必要になってくるでしょうし。では今度桜用に、筆と硯を買ってきましょうね」
「え、いいの?」
「いいですよ」
「でも、その、だって」
 戸惑う桜の隣に座りながら、雅沙羅はにこりと微笑みかけた。
「遠慮される必要は全くありませんが……ならばこうしましょう。もう少し体調が回復されたら、少しばかり私の方を手伝っていただけますか?」
「わ、私で手伝えることなら」
「では、よろしくお願いしますね」
 手伝いとは仕事だろうか。雅沙羅は一体どんな仕事をしているのだろうか。今日も朝から行ってきたのだろうか。
 そんな疑問が次々と沸き上がるも、桜は訊かずに口を閉ざす。とにかく、桜は混乱しているのだ。雅沙羅たちが親切にしてくれている現状は、熱が見せている夢なのかもしれないとすらたまに思う。第一。

 ——桜が刺したのは、誰?



Eternal Life
月影草