予兆



 雪風という予定外の訪問者が現れてから数週間。山の木々は、既に紅葉を始めていた。
「あれ、今日はいないのかな、雅沙羅」
「そんなぁー」
 いつも稽古に使われており締め切られている幣殿の障子が、今日は開け放たれている。中に人はいない。
 結は頬を膨らませるが、それでなだめてくれるような千秋ではない。
「雅沙羅も結があまりにもしつこいから、愛想尽かしちゃったんじゃない? ねぇ、結」
 意地の悪い微笑と意地の悪い視線を向けられた結は必死に違うもん、と涙目になりながら繰り返す。一応結にも、雅沙羅に甘えている自覚はあるようだ。
「千秋、そんな意地悪言わないの。結、あなたの探し人なら神社の裏にいるわよ」
 神社の建物の脇から二人に声をかけた人物は、白い上衣に赤の袴をはいていた。髪を短く切りそろえた彼女の服装は雅沙羅と同じ巫女装束だが、左胸に輝く金の菊の紋章があった。
 花びらのかけていない菊の紋章は正当な神武の名を継ぐものであることを示し、未だ修行中の雅沙羅には与えられていないものである。
「本当っ。雅沙羅ーっ」
「お言葉ですが、稽古中である雅沙羅の邪魔をするわけには参りません」
 喜んで裏手に回ろうとする結の方を掴んで千秋は強引に止め、自身は深々と頭を下げた。放してよ、と暴れる結の頭も、千秋は押さえつけてお辞儀させる。先日の一件では瞬時に対応できなかったが、これが彼女に対して尽くさなければならない礼なのだ。
「面を上げなさい。その様な礼は無用よ」
 千秋は言われたとおりに頭を上げ結の頭からも手を離したが、決して視線をも上げようとはしなかった。
 神武家――天皇家に従わないという選択肢を古来から、天皇によって与えられた一家。その当主ともなれば、千秋の父である柳原家の当主ですら頭を下げる。
 本来ならば雅沙羅に対しても千秋はこのような態度を取る必要があるのだが、未だ当主ではない為、雅沙羅自身がその仕来りを拒んだ為、友人としての振る舞いを千秋は自分に許したのだ。
 二人の大人の間の沈黙に耐えかねたのか、音桐と千秋を交互に見ていた結は、音桐を上目遣いに見上げる。
「……雅沙羅」
 結の呟きに音桐は笑みを零し、「ついていらっしゃい」と神社裏へと歩き出した。

「雅沙羅、お客様よ」
 つがえようとした弓と矢を一度下ろし、雅沙羅は音桐の声に振り返る。音桐の背後に認めた千秋と結の姿に彼女は笑みをこぼすと、右手に持っていた矢を矢筒に戻し、弓を手近な木に立てかけた。
「弓の稽古なんかするんだ」
「祭りの一環としてありますから」
 何を言えばいいのか分からず呟いた千秋に、雅沙羅は困ったような笑みを浮かべた。結は驚きに目を丸くし、いつもより一瞬遅れで雅沙羅に駆け寄る。
「かっこいいっ。おねえちゃん、すっごくかっこいいっ」
 目をきらきらと輝かせる結の興味が弓矢にあるのは一目瞭然であった。雅沙羅は結の様子にくすりと笑みを零し、音桐に言う。
「音桐様、子供用の弓矢、ありましたよね」
「えぇ、そういうと思ったわ。待っていて、持ってきてあげる」
 音桐が室内に入ってしまうと、千秋は改めて神社の裏を見回した。遠くにおいてある的の中心には、数本の矢が刺さっている。武家の子女しといて弓を叩き込まれている千秋でも舌を巻く程の命中率と精度だ。
「はい、雅沙羅」
「わざわざありがとうございます」
 奥から出てきた音桐から、雅沙羅は細長い包みを渡された。包みは雅沙羅が先ほど持っていた弓の半分ほどの長さしかない。包みの中から出てきた弓に弦を張りを、雅沙羅は結に持たせた。
「これは私が初めて使った弓なの。左手で持ってね。そう、矢は右手に」
 音桐が近くに的を設置し、結は雅沙羅の指示を受けて弓を持ち上げ、構えの姿勢に入る。
「上手ね。もう少し右よ……いいわ。右手を引いて……放す」
 静寂の中、矢が空を切る音が聞こえた。
 まるで吸い込まれるように、矢は的の中心に突き刺さる。
「上手ね、結は。ね、簡単でしょう?」
 信じられない、と見上げてくる結の頭を撫で、雅沙羅は褒める。褒められて自信が出てきた結は、大きく頷いた。
「嘘……信じられない」
「信じられない? でもね、これが真実よ」
 首を横に振る千秋の背後から、音桐が囁きかける。
「雅沙羅に剣の稽古をつけてもらったらどう?」
 千秋はぎくりと背筋を伸ばした。
 雅沙羅の指示で結はもう数本の矢を命中させた結は満面の笑みを浮かべていて。優しく結の頭を撫でる雅沙羅が刀を握っている場面を思い描いた千秋は、再び首を横に振った。顔を伏せたまま、千秋は音桐に囁き返す。
「剣は人を傷つけるもの。雅沙羅になんて……持たせたくないし、持ってもらいなくもない」
 雅沙羅は巫女。神に仕える身。その身を黒の不浄はおろか、紅の不浄にすらさらしたくはない。それが、千秋の想いであり、願いである。
 千秋の返答に、音桐は目を細めた。
「貴殿の願い、覆ることはあるまいな」
「え」
 突然低く硬い声で音桐に問われ、千秋は更に肌寒さを感じた。
 まるで全てを失ってしまうのだと、幸せな日常がすぐにでも壊されてしまうのだと、そしてあえて言うのなら、千秋自身が雅沙羅に剣を握らせるのだとでも音桐は暗喩しているようだった。
「私は……少なくとも、今は覆したくはない。……音桐様は一体何をご覧になったのですか」
 音桐に占いは出来ない。先読みの能力もない。だが、まれに予知夢を見るのだという。逆夢であることも多く、夢で見たからといって一概にそれが起こると信じることはできない。
「見た夢はそう。雅沙羅が成人してなお、子供たちと遊んでいる夢。結も成長して、結婚して、ご両親の跡を継ぐ……」
 幸せそうな夢だと千秋は思う。そして、それが現実になるだろうとも思う。それなのに音桐の表情は和らがない。
「まさか……」
 逆夢だというのか。
 千秋の唇は動けど、声にはならない。
 音桐は千秋をじっと見つめたまま何も言わない。その意味は、肯定。
 顔が真っ青になった千秋に、有無を言わせない口調で音桐は釘を刺した。
「今の話、雅沙羅にはおろか、村人にも口外せぬよう」
「心得ております」
 硬い言葉遣いの中にも雅沙羅を想う音桐に、どうしようもない申し訳なさで目を伏せた千秋には、的に矢が当たったことを無邪気に喜んでいる結の声すらも、虚ろに響いた。

 雅沙羅の弓の稽古は結たちが訪れたことで終了し、結、雅沙羅、千秋の三人は神社裏の縁側に腰掛けていた。先ほどまではしゃいでいた結は流石に疲れたのか、今は雅沙羅の膝枕で眠っている。
 優しげに結を撫でている雅沙羅を見ていると、千秋には音桐の話が思い出させられ、気になって、つい口から飛び出そうになる。あと少しの所で口を閉ざし続け、無言のまま雅沙羅の横に座っていた。
「他の子達は、畑ですか?」
「……あ、あぁ」
 千秋は雅沙羅の問いが一瞬理解できずに、数秒視線を泳がせた。
「うん、そろそろ収穫時期らしいよ。でも巫女様と武士様の手を煩わせるほどじゃない、だって。赤ん坊の子守を任せるほどには忙しくないから大丈夫なんだって」
 雅沙羅は一度考え込むように軽く目を閉じると、青い空を見上げて独り言つ。
「私は、そのような格差をなくしたいのに」
 雅沙羅の生家である清舞家は大家族。末っ子である雅沙羅は兄や姉に可愛がられ、幾つか年下である姪や甥と遊んだ。たまに村にいる同い年の子供たちとも遊んだ。その時に怒られるのはいつでも村の子供たちの方だった。
「他の村ではもっとはっきりしてるんだってよ。ここはさ、武家なんて柳原しかないし、どっちかっていうと職人気質だけど、もっと威張ってる侍が大勢いるって」
 だからといって、現状のままでいいとは限らないのだと思うと、千秋の言葉は尻窄みとなった。そしてするりと、言葉が口からこぼれ落ちる。
「もし……だよ。もし、雅沙羅が一つだけ守るとしたら、何を守る?」
「この村を」
「もし相手が、陛下だったとしても……?」
 喋っている内に不安になってきたらしい千秋は、今にも泣き出しそうな表情で必死に言葉を紡ぐ。対照的に、雅沙羅は落ち着いていた。
「違いますよ、千秋。私の主は現陛下ではありません。ならば、今生きている友を、子供たちを、守るべきだとは思いませんか?」
「……神武は、天皇陛下に仕えてるんじゃ、ないの?」
 どこか混乱した様子の千秋を落ち着かせるように、雅沙羅はにこりと微笑んだ。
「歴代の天皇陛下の中には、非業の死を遂げられた方が多くおられます。血筋に生まれてしまったというそれだけで、望まれない死へと追いやられた方々や、民のことを考えられたばかりに、地位を剥奪された方もあると聞いています。当時誰からも良く思われなかったばかりか、悪い噂に尾ひればかりが大きくついて忘れられていく方々が多くいらっしゃる。私たち神武は想い、悪い霊からお守りする為にここにいるのです。ですから、神武の本当の主は、当代の陛下ではありません」
 そこで一度言葉を切った雅沙羅は、続けるのを少し躊躇ったようだった。一瞬の沈黙の後、不安そうに視線を彷徨わせ唇を噛む千秋に、雅沙羅はそっと囁いた。
「もし音桐様が何か夢を見られたと仰るのなら、それは逆夢に間違いありません」
 はっと顔を上げる千秋に、雅沙羅は困ったような笑みを浮かべるばかりで、それ以上何も言おうとはしなかった。

 千秋の不安を他所に、時間は何事もなく流れていく。
 年末から新年にかけて神社の仕事が増える為、雅沙羅が子供たちと遊んでやれる時間も少なくなる。結もそれは心得ているらしく、不満げな顔をしながらも、雅沙羅と千秋を困らせるほどに駄々をこねることはなかった。両親の教育の賜物でもある。
 そして迎えたのは大晦日。今年の穢れを清めてから新年を迎える為の、浄化の儀。
 村の中心に個人が要らなくなったものや、一年間お世話になったものを持ち寄り、神社から飛ばした神聖な火で燃やす。その火の周りで歌ったり踊ったりしながら夜明けを待つのが習わしだ。
「おねえちゃん、遅いね」
 日が傾く夕暮れ時。結は千秋を見上げては呟いた。
「何言ってるの。雅沙羅は来ないよ」
 嘘ではないが、真実でもない千秋の言葉に、幼い結は目を潤ませた。しゃくりあげ始める結と、笑ってみているだけの森下夫婦に、千秋は慌てて結の前にしゃがみこんだ。
「ごめん。雅沙羅は今は来ないって言うだけで、後から必ず来るから。だから泣かないの」
「もしかして雅沙羅ちゃん、今年から神社のお手伝いなの?」
 えぇ、と千秋は結の頭を撫でながら肯定する。
「今日は雅沙羅が火矢を飛ばすらしくて」
 雅沙羅ちゃんもそんな年齢になったのね、と感心する声を聞きながら、千秋は立ち上がって神社を見上げた。石段の上には、弓を軽く引いて狙いを定める人物の姿がある。雅沙羅だ。
 弓から手を離した彼女は千秋たちに手を振ってくる。千秋は手を振り返し、すぐにでも雅沙羅の元に走っていきたいだろう結は「がんばるもん」と言いながらぎゅっと千秋にしがみついた。
 雅沙羅だから失敗することはないと千秋には分かってはいるものの、一抹の不安を感じて思わず唇を噛み締めると、着物のすそを下から小さく引かれた。
「千秋……お姉ちゃん」
「ほら、今日は結の大好きな雅沙羅の初舞台だよ。結はしっかり応援しないと」
 不安げな顔で見上げられ、慌てて千秋は笑顔になると彼女は結を抱き上げ、結もうんと大きく頷いた。
「日が沈んだぞーっ!」
 山の方を眺めていた村人の一人が叫ぶ。
「ほらあそこ、雅沙羅だよ」
 辺りはすぐに薄暗くなったが、まだ人影を確認することができた。石段の上に再び現れた人影を千秋が指すと、結は「あさら、あさらーっ」と大はしゃぎする。
 火矢は真剣な表情の雅沙羅を照らす。皆が緊張に息を呑む中、つがえた火矢は放たれ、そして。
 数瞬後、村の中心に届いた火矢は、積み上げられた物の山を大きく燃え上がらせた。
 宴が、始まった。

 いくら夜更かしを許されていても、実際に起きているのは幼い子にとって難しい。結は堂々と雅沙羅に抱かれたまま眠ってしまっていた。
「まったくもー、結ったら。雅沙羅が大変なの知ってるのかしら」
「怒らないであげてください。私は暫くこの子の為に時間を割いてあげられなかった。結が私の甘えるのは当然です」
「あんたこそ、少しは怒りなさいよね……」
 巫女の仕事は火矢を飛ばして終わりではない。逆に、そこからが始まりなのだ。
 雅沙羅は今、千秋の隣で踊り騒ぐ人を見ては優雅に座って眺めてはいるが、日が昇る数刻前から日の出まで舞い続けるのだから、今のうちに体力を温存どころか休んでいた方がいい。
 休むことを何度千秋が勧めても、雅沙羅は頑として起きていると主張し、何も口にしようとはしなかった。
「雅沙羅。……あんた、なんか隠してるでしょ」
「隠し事は良くないですね」
「そうそう。……って、それあたしの科白」
 思いっきり突っ込む千秋に、雅沙羅はくすりと微笑んだ。
「隠すつもりはなかったのですが、良く気付きましたね」
「自分の体力を見誤るような人じゃないからね、あんたは」
 千秋がジト目で雅沙羅を見遣れば、彼女は涼しい表情に苦笑いを乗せた。
「数日前に、裳着を行いました」
「そっか。あたしたちももう十五だもんね」
 遂に成人するのかと思うと、千秋は顔を顰めた。もう子供ではいられない、という事は、今の様に自由に村の子供たちと遊ぶどころか、村の中を歩き回ることすら許されない。
「三が日が過ぎれば、私はこの村を発ちます」
「二十二社参り……か」
 真剣な目つきで呟かれた言葉に、雅沙羅は無言で頷いた。
「帰ってくれば、私は正統に神武の名を引き継ぐことになります」
 雅沙羅は規則正しい寝息を立てている結の頭をそっと撫でた。
「結のこと、子供たちのこと、お願いしますね」
「もっちろん。任せなさい。雅沙羅にばっかり懐いてるんだから。雅沙羅がいない間にあたしが手なずけてみせる」
 千秋は不安を押し隠して笑ってみせるが、雅沙羅は静かに笑っただけで、何も言わなかった。

 一月四日。
 日も未だ昇っていない早朝に、千秋と雅沙羅の二人は村の端にいた。
「本当に結に何も言わずに行っちゃうんだ」
「離れてもらえなくなりそうですから」
 雅沙羅が着ている白の上衣の左胸には、今日は金の刺繍が施されていた。右下の花びらが一枚欠けた菊の花は、雅沙羅が神武の跡継ぎでありながらもまだ正式に地位を継いでいない事を示している。
 見送りに来た千秋は押し黙ったまま難しい顔をしており、どこか不満そうにも見える。
「千秋……?」
 雅沙羅が囁くように名を呼ぶと、千秋は耐え切れずに顔を伏せて手を伸ばす。雅沙羅が握り返したその手は、雅沙羅らしからぬ冷たさだった。
「雅沙羅。あたし……雅沙羅にだけは剣を握って欲しくない。人を傷つけるのは、武家であるあたしたちだけで十分だから……! あたし、あたし、雅沙羅と一緒に行けたらよかったのに。そしたらあたし、雅沙羅を守ってあげれるのに……っ」
「神武も清舞も、何度となく戦に関わってきました。それは私たちが守りを務めるこの地の特性の為です。この地は将軍殿の物であり、陛下の物であり、どちらの物でもない、特殊な場所」
 今日発ってしまえば数年は戻ってこられないというのに、雅沙羅はすごく落ち着いていた。むしろ逆に、落ち着きすぎているとすら千秋は思った。
「この地の守を託された清舞家は、どんなことがあろうともこの地を守らなければなりません。その為には戦わなければならない時だってあります。けれど、清舞はこの地の守り方しか知りません。だから千秋、この地に住まう人々を、どうか守ってください」
 任せましたよ、とにっこり微笑む雅沙羅の雰囲気に圧されるように、千秋はこくりと頷く。
「絶対、戻ってきてね。約束だよ」
「えぇ、必ず」
 風にたなびく紅の色が森の中へと消えいくのを、千秋は見送った。



Eternal Life
月影草