「雅沙羅……」
 小さな呼び声と共に出され、そして慌てて引っ込められた手を思わず追って触れれば、それは冷たく、小刻みに震えていた。
 「正当な世継ぎだから」。そんな理由をかざして、私たちはどれだけの重責を彼に負わせてきたのだろう。そう思うと心苦しくて、私は彼の冷えた手を握りしめた。
「雅沙羅……もっと、その……いいかな」
 潤んだ瞳で囁くように了承を求めてくる彼の吐息は浅く、熱い。
「……私でよろしければ」
 半信半疑の表情で腕を伸ばしてきた彼に応じれば、華奢な身体のどこにそんな力があるのだろうと思うくらい力強く抱きしめられる。
 彼と言葉を交わすことはおろか、目見えることすら諦めていたというのに。これは花王が見せている一夜限りの夢ではないのだろうか――とろけてしまいそうな程の心地よさに見を委ねながら、夢うつつに考えていた。

 慶応四年春。- - 様が亡くなられる、僅か数日前のことだった。



狭間



 古河は、雅沙羅のことが心配だった。
 神武は選定の家と聞いていたから、彼はてっきり彼女が‥‥を後継に選んだのだとばかり思っていたが、実際に彼女が選んだのは - - の方だったらしい――戦争が始まる前、彼らが入れ替わる前にどんな出会いが、そしてどんなやり取りがあったのか、- - は赤面するばかりで教えてくれなかったが、家同士の付き合い以上の何かがそこにあったのは、彼ら二人の態度を見ていれば明らかだった。
 だからこそ二人で花見に行くことを勧め。
 はにかみながらも晴れ晴れとした表情で - - が戻り、二人がそれまで以上の仲睦まじさを見せるようになってから立った数日後に、- - は他界した。
 どうして- - を守りきれなかったのかと自責の念に駆られる以上に、彼を失った彼女は大丈夫なのかと、思わず様子をうかがってしまう。
 桜の樹が実を結び始める頃、思い立った古河がいつも治療に使われている長屋を覗けば、てきぱきと薬草を準備し、怪我人の手当に当たる雅沙羅の姿が見えた。彼女が- - を診た時にも思ったが、見事な手際だった。
 邪魔する前に帰ろうと思うも、どこか彼女の顔色が優れないように思えて戸の隙間から覗き直せば、彼女と目が合った。
「古河殿、どこか具合でも悪いのですか?」
 笑顔で問いかけられ、いやと彼は口ごもる。
「自分の傷は舐めとけば治る程度のものですから、お気遣いなく。それより、お疲れさまです」
「いえ、このくらいしか私にはできませんので」
 彼女の言う「このくらい」がどのくらい兵たちの支えになっているのか、彼女は知っているのだろうか。
「神武様、私、水を汲んできます」
「はい、お願いします」
 雅沙羅の声に見送られたらいを持って出てきた女が、戸口に突っ立っていた古河を引っぱり、長屋から引き離した。
「あの、用がないなら神武様の邪魔をされないでもらえます?」
「あ……忙しい所、悪かったな」
「忙しいというか……彼女に早くお休みいただく為にも、無駄話は控えて頂きたいんです」
「そんなに働き詰めなのか。悪いな、代わりの人間には心当たりが……」
「そうじゃなくて! 神武様を気遣って欲しいと言っているんです。彼女……その、身重なので……」
 言って、まるで自分のことのように彼女は頬を染めた。
「え、身重……?」
 古河は雅沙羅の姿を思い出すが、とてもそうは見えなかった。
「ご本人はまだ気付かれていないようですけどね」
「じゃあ、誰が神武殿は身重だと……?」
「いやだ、私だって女です。そのくらい分かります! それより、神武様が選ばれる殿方って、どんな方なんでしょう。きっと素敵な方なんでしょうね」
 うっとりとした表情を見せる彼女の横で、古河は驚きを隠せなかった。思い浮かぶのは、嬉しそうな表情で花見から戻ってきた- - の顔だ。
 もし雅沙羅が身籠っているとしたら、彼の子供に他ならないだろう。


 夜中に目を覚ました古河は、桜の樹へと足を向けていた。桜の時期でもないのに、行かなければという脅迫じみた思いに駆られたのだ。
 月が煌々と照らすその桜の樹の下には、先客がいた。その人物が見上げる先には、生い茂った葉と、赤く熟した実が、時折吹く柔らかな風に揺れている。
 絵になる光景だった。
 思わず息を飲んだ彼の前で、その人物がゆっくりと振り返り、首を傾げた。
「古河殿……?」
 呼ばれた己の名は耳に心地よく響くが、茶色の地味な着物を身に纏ったその人物と、聞き覚えのある声が一致せず、彼は思わず目をこすった。しかし、着物の色は変わらない。
「神武殿……どうされたんですか、その格好は!」
 そこにあるのは、- - だけでなく巫女である神武雅沙羅すらも失われてしまう恐怖だろうか。意図せずきつくなってしまった口調に、雅沙羅はただ微笑んだ。
「最近具合が悪いと年長の方に相談しましたら、お腹の子の為にも安静にしていなさいと怒られてしまいました」
 ゆったりとした口調で、まるで他人事のように告げる彼女の眼差しは、寂し気だった。
「数日悩みました。この子を取るのか、あの子を取るのか――けれど、この子を今守ってやれるのは、私だけなんですよね。なので古川殿。あの子を、結をお頼みしてもよろしいでしょうか?」
 何も言えずに黙ったまま、古河は歩を進める。
 彼女は細いままで、懐妊とはいっても腹の膨らみはまだ目立たない。それでも、数ヶ月前までは青白い顔で途方に暮れていた彼女の表情には、新しい命を守ろうとする母としての気迫がある。
 自分よりも大分年下だというのに、愛しい人を失いながらも命を繋いでいこうとする彼女には、尊敬の念すら覚えた。
 彼女の目の前まで来た古河は膝をつき、彼女の手を取った。
「分かりました。結殿のことはお任せください。ですからどうか――元気なお子をお生みください」
「古河殿、ありがとうございます。身勝手だとは思いますが、後のことはよろしくお願いいたします」

 それから雅沙羅は長屋に顔を出さなくなり。そして。



「……ん? 人里があるぞ?」
「こんな山奥にか。忍びの隠れ里じゃないのか?」
「いやいや、どうして探していた神武の里という発想にならない」
「神社があったら認める」
 そんな軽口を叩きながら、古河と後藤は里の入り口に立った。山間の小ぢんまりとした村で、田植えを待つ田の畦道を子供が走り回っている。
「あぁ、あるじゃないか、神社。鳥居が見えるぞ」
「神武殿の縁者がいらっしゃると良いんだが」
 二人は、あの日から消息の知れない雅沙羅の行方を追っていた。彼女が身を寄せたという家に立ち寄ったが、彼女は既にいなかった。ならばと、彼女の故郷である、地図にも乗らない村を探しまわったのだ。
 石段を上った上にある神社は綺麗に保たれていたが、人気は全くなかった。彼女が俯きながらに語った‥‥の残忍な仕打ちを、まさか神武家に手出しはしないだろうと半信半疑で聞いていたが、事実だったのかと今更ながらに身震いする。
「どちら様?」
 表情を凍り付かせた二人に、冷ややかな視線を声を投げかけてきたのは、神社の裏から出てきた、雅沙羅と同い年くらいであろう少女だった。彼女は三歳くらいの幼子を抱いている。
「あぁ、失礼した。自分たちは- - 様の護衛を務めていた古河と後藤と申す。神武雅沙羅殿がご懐妊された後連絡が取れず、どうされたのかとこちらまで足を運んだんだが……雅沙羅殿はいらっしゃるだろうか」
 彼女は泣きそうな表情を見せ、雅沙羅がここにはいないことを二人は悟った。
「私は、この村を任された柳原家長女の千秋と申します。雅沙羅とは良き友人で、私も彼女のことを心配していました。数ヶ月前に一度戻ってきましたが、結を探しに行くと言って聞かず、今は一体どこにいるのか……」
 結局結の行方も知れず、雅沙羅との約束すらも果たせなかった古河と後藤は、項垂れるしかなかった。
「……けれど、彼女は戻ってくると思います」
 千秋の言葉に、彼らははっと顔を上げる。
「戻ってきた時、彼女から預かりました。この子を」
 二人の視線が、彼女の旨に抱かれている幼子に集まった。黙ったまま見返してくる、きらきらとした瞳は、既に知的な光を湛えている。顔つきは- - に似ているようだったが、にこりと微笑むその雰囲気は、雅沙羅の生き写しだった。



Eternal Life
月影草