ともしび



 しゃらん

 聞こえるのは鈴の音。

 しゃらん

 遠くからなのか、近くからなのか、も分からない。
 ただ「そこ」から聞こえてくる。

 しゃらん

 その音を聞く度に、心が洗われるようで。
 だけど同時に悲しくて。

 しゃらん

 零れた涙は誰の為?



 桜の悲鳴で駆けつけた千秋が、清舞雅沙羅が、町の人々が、呆然とする桜の目の前でてきぱきと動き、正月三ヶ日からはずらされる日取りとなったが、神葬祭がすぐに行われた。
 しかも、神武雅沙羅の名で。
「もー、びっくりしちゃったよぉ。この町の人たち、皆知ってたんだもん」
 人気のない境内で、桜はぷぅと頬を膨らませた。
 「当たり前じゃなーい。役所との色々があるからね、やっぱり町ぐるみじゃないと」などと杏奈に明るく言われた時には、開いた口が閉まらなくなるかと思った。だが杏奈の言うことはもっともで、この町は雅沙羅と桜という異分子を、世間の目から欺き続けてきたのだ。旧家と結託した町の人々の力を侮ることなかれ。
 雅沙羅はこうなることを予想していたのか、神事や神社のあれこれ細かなことまで全てをビデオに記録して残していたらしく、清舞雅沙羅は現在それらを観ながら勉強中だそうだ。この町に来てから三ヶ月もなかっただろうに、全くもって手際の良いことだ。
 はぁ、と桜は深い溜息を吐く。
 雅沙羅の声が聞きたい。雅沙羅の笑顔が見たい。雅沙羅ともう一度共にありたい。
 だが、どれももう叶わない。
 もう少し雅沙羅に甘えておけばよかったと今更ながらに後悔しつつ、桜は突っ伏した。
「あー、桜はやっぱりここかぁ。だぁかぁら、あんたはあたしに鞍替えしとけば良かったでしょ?」
「……うん」
「神、お前そこは否定するところだろ? 早まるなっ」
「勝は黙ってなさいよー。折角桜を手なずけるチャンスなのに」
「この際千秋でいいよ」
「やった! ついに桜があたしの手に堕ちたわ! ふふん、こういうのはやっぱり残った者が強いのよ」
「神、お前、気は確かか!? しかも柳原、お前妥協案だぞ!?」
 勝の突っ込みが的確すぎてこらえきれず、桜は吹き出した。
 その時石灯籠に明かりが灯る。幣殿の中も明るくなった為、何事かと三人一様に周囲を見回した。幣殿の中からだろう、しゃらん、しゃらんと、鈴の音も聞こえる。
『相変わらず仲良いな、お宅ら。暇しそうにねぇじゃん。良かったじゃねぇか、桜』
『二人とも、桜がお世話になっているね。僕らは華鏡と雪風。雅沙羅や桜とは、ずっと一緒に居たんだよ』
 着物の凸凹コンビに声をかけられるのはさすがに予想の範囲外だったらしく、千秋と勝の二人は顔を見合わせた。
『三人とも幣殿の中においで。君たちが今僕たちのことを見ているのは、雅沙羅が力を貸してくれているからだ。彼女も待っているし、歓迎しているよ』
「本当にいいの?」
 音を立てないようににじり寄って桜は戸に手をかけ、もう一度確認を入れる。華鏡が頷くのを見て、手に力を込めた。うっすら開かれた引き戸の隙間からは、優しい光に照らされた幣殿内が見えた。こうやって隙間から覗くのは懐かしいなと思いつつ、桜は戸を目一杯開ける。
 しゃらん、しゃらんと鳴る鈴の音が、より一層大きく聞こえる。
 幣殿の中の光景はあまりに幻想的で、一瞬息をすることも忘れ見入ってしまった。それは、千秋や勝も同じだったらしい。
 巫女装束の上に千早を羽織った雅沙羅はまるで光をまとった精霊のようで、彼女が動くたびにしゃらんと澄んだ音色が響き、きらきらとした煌めきを放っているようであった。
 すべてを溶かし、すべてを無に還してしまうような――
 桜と目が合うと、雅沙羅は彼女に笑いかける。それは、見る人全員を惹きつけて虜にしてしまうような笑顔で、どうして彼女が「諒闇」だと信じて疑いもしなかったのか、桜には恥ずかしくてたまらなかった。
 しゃらん
 最後に一度、雅沙羅の鈴の音が高らかに、だけど優しく鳴り響く。長い舞いがようやく終わったらしく、鈴の音が途切れると静けさだけが残された。
『桜。何も言えずに逝ってしまって、ごめんなさい。私が彼らとしていた約束が果たされたので、全てあるべき姿に戻り、これがその結果です』
 桜の前まで音もなく来た雅沙羅が、目線を合わせるように膝を折る。これは雅沙羅と桜の問題だからか、千秋と勝の二人は静観を決めたらしかった。
「あるべき姿って? なんで雅沙羅が死んじゃって、私がまだ生きてるの?」
『それは、この百数十年の間、本当に生きていたのは桜、あなただけだったからです』
 静かに告げられて、桜の手には血液の生暖かい感触が蘇る。
 雅沙羅が死んでしまっているとするのならばあの時に違いないと、桜は直感した。
「ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、雅沙羅……っ! 私、わたしっ!」
 こんなに近くにいるのに手を伸ばしても触れられない悔しさに、ばんと桜は床板を叩いた。何も言えずに俯いた千秋が、そっと彼女の背をさする。
『いいえ、謝らないといけないのは、私の方です。ごめんなさい、桜。桜には、随分と辛い思いをさせてしまい……』
「辛くなんかなかったもんっ!」
 しゃくりあげ、涙で顔をくしゃくしゃにしながらも、桜は顔を上げ、雅沙羅を見据えた。
「楽しかった、楽しかったよ。雅沙羅、いなくなっちゃって寂しいよ……」
『ありがとうございます、桜。私も、楽しかったです。随分遠回りをしてしまいましたが、後悔はしていません』
 ふわりと暖かい空気に包まれて、桜は目を瞬かせた。この神社は暖かいと千秋が言っていたのは、きっとこういう意味だったのだろう。
『千秋。またこの町のこと、よろしくお願いしますね』
「桜のことまでまとめてまっかせなさーいっ!」
「逆に不安になるようなこと言うなよ」
「え? 今の発言のどこで不安になるって言うのよ」
「不安になるだろ? 神のことまでって辺りが特に」
『おいお前ら、痴話喧嘩は他所でしろ』
 ぶっきらぼうな声で雪風に横槍を入れられ、不満そうにしながらも千秋は黙った。そして真面目な顔で続ける。 「雅沙羅、いつまでここにいるの?」
 千秋の質問には、答の代わりに笑顔だけが返された。


『帰るのか』
「……うん」
 彼らとも会うのがこれで最後だと思うと、先に行ってしまった千秋と勝が石段の下で待っているにも関わらず、桜は石段に足をかけることさえできなかった。彼女はまだ明かりの見える社を一度だけ振り返り、鳥居の横に佇む雪風を見た。
『俺も華鏡も雅沙羅も、ここにいるから。会いたくなったら遊びに来いよ。そのうち、子供でも連れてさ』
 何で子供の話が出るんだろうと思ったとき、雪風ってばもしかして子供好きとの結論に至り、そのアンバランスさに彼女は思わず笑みを零す。
「雪風ったら、いつの話してるの? 子供なんて、まだ恋人もいないのに。大体、いつまでここにいるつもりなのよ」
 笑って言ったというのに雪風に無言で見つめられ、桜は彼の答えを悟った。彼はきっと、いや、彼らはきっと、雅沙羅がここから離れると決めるその時まで、彼女とその運命を共にするつもりなのだろう。
 桜の感覚からすると、子供が出来るまでなんてだなんてすごく気の長い話の気もするが、それでも多分そちらの方が早い。
「……うん、分かった。期待しないで待ってて」
『あぁ、待っててやるよ。あ、でも俺は時々いないかも』
「……はあ?」
 一瞬感動したと言うのに、その感動を壊された気がして声に怒気がこもった。雪風のことだ、雅沙羅を放って一人花見に月見に紅葉狩りに、と日本の四季を堪能するつもりと言われたって驚かない。
 余程桜の目つきが悪くなったのか、雪風が冗談だよ、と小さな声で言い訳するように呟く。
『冗談だって、だから早まるな』
「……いいけどね。雅沙羅はそれも、許すんだろうし」
 そろそろ行くねと声をかけて、桜は石段を下り始めた。振り返ってしまえば神社に居座ってしまいそうで、振り返ったら駄目だ、と何度も心の中で念じながら。
『最後に、俺ら三人の本音。よく聞けよ』
 雪風の声を背後に聞きながらも、桜はゆっくりと階段を下りつづける。ここで止まってしまったら、神社に戻ってしまうから。
『幸せになれ。森下結』
 ――なんて、お人好し。
 だけどそんな彼らが、桜は好きだった。今でも。
「うんっ。今までありがとっ」
 笑顔で大きく頷いて、だけど後ろは見ずに、彼女は駆け出した。
 下で待っている千秋と勝の下へ。
 そして、未だ見ぬ未来へと。



Eternal Life
月影草