繋ぐ者



 彼女の話をすれば誰もが、かわいそうな子なのだと口を揃えた。

 「諒闇雅沙羅に関わるな」と、そう中央からのお達しがあったのは、二年程前のことだっただろうか。なんでも彼女は神武の巫女でありながら現人神である天皇陛下に反旗を翻したのだとか。そんな話を、たまたま立ち寄った神社の神主から聞かされた。
 雅沙羅は一度、二十二社参りの一環でこの神社を訪れたのだと、老年の神主はまるで我が子を慈しむかのように、すうっと目を細めた。
『反逆だなんて、そんな物騒な話になっているようですけどね、私には信じられないんですよ。
 あの子を包み込む空気はね、優しいんですよ。意味が分からないというような顔をしていますね? 私にもなんと説明して良いのか……あの子が持つ空気はね、暖かいんです。守られている、そんな安心感があるんです。あの子自身も本当に素直で真っ直ぐで——神武家は天皇家を影からお支えするのがその役目。決して表舞台には出てこない家でもあります。あの子はね、まさにそんな神武の家に、神武の巫女に、ふさわしい人材だと思いますよ。
 それにあの子は、皇太子殿下を敬愛していました。そんな個人的な感情から言っても良き補佐役になるだろうと、あの子を見て確信しました。そんな子がね、理由はどうあれ、即位された陛下に謀反を働くとは、どうにも私には思えないんです』
 湧かしたばかりの湯を急須に注ぎながら、彼は続けた。
『反逆の話が出たのはね、彼女、神武雅沙羅がここを訪れてから割とすぐでしたよ。開いた口が塞がらないどころか、顎を落とすかと思いました……そうだ、あなたは神玉桜の話を聞きましたか? まだ幼い女の子だそうで、天皇陛下の御為に今も前線で戦っているそうですよ。
 彼女の出自は知りませんけどね、私には彼女が、あの子に対する人質のように思えてならないんですよ。人質を取られてやむを得ず、あの子は幕府側につくしかなかったように、私は思うんですよ。まぁこれは、老人の邪推に過ぎませんけどね』
 神主はゆっくりと急須を揺らしていた手を止め、どこか遠くを見遣る。想うのは恐らく、諒闇の名を冠された雅沙羅のことだろう。
『まぁ、あんな綺麗な子がと、私が信じたくないのもあるんでしょうけどね。理由はどうあれ、一連のことはあの子の意志ではないと、私は信じていますよ。
 噂では消息を絶ってしまったようですが、旅をされているあなたはどこかであの子に巡り会うかもしれませんね。その時はどうか公平な判断を。あの子が神武なのか諒闇なのか、どうぞその目でしかと見極めて頂ければと思います』



「……ん、おいしい」
「ありがとうございます」
 思わず漏らせば、料理をした本人である雅沙羅が、はにかんだ笑みを見せた。彼女の隣に行儀良く正座している少年があたしに羨まし気な視線を投げ掛けてくるが、こればっかりはあたしにもどうしてやりようもない。
「……すみません、華鏡」
 雅沙羅も気付いたようで、申し訳なさそうに謝る。謝られることは想定していなかったのだろう、逆に慌てた少年、華鏡は顔を真っ赤にしながら首と手を振り、気にしなくて良いから、と態度で力強く示した。そんな彼に雅沙羅は「そうですか」と小さく返す。申し訳なさそうなのは、変わらない。
 ここ数日彼らと寝食を共にして分かったことは、華鏡は雅沙羅に気があるらしい、ということだ。しかし雅沙羅は分かっているのかいないのか、あっさりとした態度だ。もし彼女が全くもって気付いていないようならばさすがに気の毒だとは思うのだけれども、ゆるく見守ってやるのが大人の対応なのかもしれない。想いが通じ合ったとしても、彼らが結ばれることはないのだから。

 幼い頃から幽霊というものが見えた。それはどうやら、物心つく前に高熱を出し、生死の境を彷徨ったことが原因らしい。
 ヒトというものは「死」に触れることで、「死」そのものである幽霊が見えるようになるらしい。雅沙羅も同じだ。致命傷を負い、死にかけたから——いや、彼女の場合は多分であるが、肉体は一度死んでいるのだ。それを彼や他の霊が繋ぎ止め、彼女もそれに無意識ながら応じた。自覚は恐らくだけれど、ない。
 穏やかに微笑む雅沙羅と、ちょこんと横に寄り添う華鏡。
 あぁ、こんなことにさえならなければ、彼らはきっと良い夫婦となり、幸せな家庭を築いただろうに。

「ごちそうさん。こんな山小屋で、こんなおいしい料理を食べられるとは思ってもなかったよ」
「食材がよかったからですよ。でも、ありがとうございます」
 本当は彼女に料理をさせる気もなかったのだ。あんなに派手にやられた傷は、そうそう治るようなものではないのだから。だというのに、あたしが川まで水を汲みに行っていた僅かな間に、これだ。厄介なのは無理をしている様子、嫌そうな様子もない辺りだろうか。
「身体の調子は本当に良いのかい? あんたの回復の早さには驚かされたよ」
「はい、痛みも残っていませんし、恐らくもう大丈夫であろうと。本当に、助けて頂いてありがとうございました」
「いや」
 頭を下げようとする彼女を、あたしは制した。
「あたしは何もしてないよ。それはあんたの周りにいる霊たちのお陰だし、もう一つ言うのなら、それだけ慕われてるあんた自身の実力でもあるんじゃないのかい」
 あたしの言葉は雅沙羅にとって意外だったのか、きょとんとした表情で数度、彼女は目を瞬かせた。
「あんたの周りは暖かい。それは、あんたがそれだけ守られてるってことだよ」
 賛辞のつもりであたしが付け加えた言葉に、彼女はすっと目を伏せた。
「……はい。私はいつでも彼らに守られています。私は神武としてこの国を守り、支えていかなければならないというのに、私一人が守られているだなんて……守られていることはありがたいのですが、守られているから私は、この国の異変に気付くことができませんでした。神武として、犯してはならない失態ですよね。私は、神武ではなく諒闇で本当に良いのかもしれません」
 泣き出してしまいそうな雅沙羅の表情に、華鏡がなぐさめるように彼女の肩にその手を置こうとし、すり抜けてしまったのが見えた。彼女に触れることのできない苛立ちにか、彼はぎゅっと手を握りしめ、唇を噛み締めた。
 そんな二人の様子をぼんやりと見つめながらあたしが思い出すのは、あの神主の穏やかな声音だ。
 この子は確かに違う。こんなにひたむきに、自らに与えられた使命を全うしようとしているのに、そしてそれは天皇陛下を、そしてこの国を陰から支えることなのに、自分の使命を投げ捨てるようなことを、天皇陛下に楯突くようなことをする訳がない。時には自身の意志を捨ててでも使命を重んじようとする、そんな子じゃあないのか。
 ならば謀反の話は仕組まれたものだろう。神武の名を冠し、他人の期待に必死で応えようとするこの子を、誰がおとしめようと言うのか。
 自問してみればその答は明白で、あたしは自嘲するしかなかった。
 隣に座る少年を今は華鏡と呼んでいる雅沙羅だが、最初にであった時、彼女は彼のことを- - 様と呼んだ。その時は彼女が間違えただけだろうと思ったけれど、もし彼が本人だったのなら? ならば今の陛下は誰なのか。
 神武である雅沙羅ならば知っていただろう。本当の皇位継承者のことを。だからこそ、彼女は。
「あんたは、神玉桜を知っているのかい?」
 思わず口から滑り出た言葉に、雅沙羅は顔を上げ、目を瞬かせた。
「や、彼女があんたに対する人質だったって噂を耳にしてさ。答えたくなければいいんだ、忘れておくれ」
 慌てて告げたあたしに、雅沙羅はにこりと微笑んだ。
「えぇ、知っています。人質だなんて、そんな話になっているとは知りませんでしたが……あの子は、私を追ってきてしまった、それだけなんです。あの子が、私を私として認識してくれるかどうかは分かりませんが、それでも私には、あの子の人生を狂わせてしまった責任があります」
「あんた、それは……諒闇の名前で生きていくって、そういうことかい?」
「……はい。少なくとも、あの子が思い出してくれるまでは」
 華鏡は、顔を伏せたままだった。心なし顔色が悪いのは、戦争前の二人の関係性を知っているからだろうか。
「それが彼らの想いを踏みにじることになってもかい?」
「彼らは、私のことを幼い頃から知っています。ですから多分、許容してくれると思うんです。……そんな打算まで許してくれるかは分かりませんが……」
 困ったような笑みを浮かべた雅沙羅に、あたしは微笑みかけた。
「許容してくれるに決まってるじゃないか、あんたのそのくらいの我が侭。どうせあんたの人生で最初で最後とか、そんなもんなんだろう? そのくらい許容してくれるし、支持もしてくれる。それが、あんたを守ってるモノだよ」
 彼女を守っているモノはあたしにも見えない。恐らくは霊を越えた存在、祖霊とかそんなものなんだろうと思う。
 だから雅沙羅は大丈夫だとあたしは思うんだ。むしろ心配なのは。



「……見事に真っ黒だね」
 思わず少し顔が引きつってしまうのも仕方がないだろう。雅沙羅はこれを知っていたんだろうか? 思い返しては小さくため息を吐く。
 彼女のかわいい小さな姫君を取り巻いているのは、憤怒か嫉妬か、はたまた悲哀か。雅沙羅にならば一目で分かったのかもしれないけれど、あたしに分かるのはそれが負の感情であるってことだけだ。
 一体どう声をかけたものかと悩みつつその子を見ていれば、彼女の背後にいた男と目があった。
『……』
 どこか戸惑ったように彼は何かを言うが、その「声」はあたしには届かない。聞こえない、と緩く首を振れば、その男は何か納得したようだった。
 山男のような風体の、大柄な男。どうやら彼は、桜の側にずっとついているようだ。恨みがあって取り憑いているのではなくむしろ守る為に付き従っている様子なのだが、そんな男の話、雅沙羅の話には出てこなかった。
 神玉桜は恐らく、負の感情を纏わり付かせているだろう。それがあたしには見えるかも知れない。それが彼女の話だったはずだ。しかし、守護霊ではないにしろ誰かがついているのならば、こんなに黒い気を纏わり付かせていてもまだ救いはあるのかもしれない。
「あんた、ちょっと待ちなよ」
 あたしの前を素通りしようとしたその子を呼び止める。感情のない人形のような顔や、ゆっくりとこちらに向けられた。
「あんたはまだ、諒闇雅沙羅を探しているのかい?」
 二度、三度、と桜はゆっくり瞬く。
 やっぱり駄目かも知れない。そう思ったとき、その子は小さく口を開いた。
「違うの」
「違う?」
「諒闇雅沙羅じゃないの。大切な人、探してるの。でも、思い出せないの」
 小声で呟いた彼女が見せたのは、戸惑いの色だった。道に迷い、親を捜している子供の顔だ。そしてそれは比喩などではなく、文字通り彼女は探しているのだろう。神武雅沙羅のことを。
「思い出せないから、だから探してるの。諒闇雅沙羅が、その人に繋がってたような気がするから。でも、でもね、あたし、諒闇雅沙羅……」
『殺してしまったの』
 最後の一言は、言葉にすらならない。身を縮ませ、ぎゅっと袖を握りしめた姿が痛々しい。
「大丈夫、彼女は生きてるよ」
 あたしの言葉に、桜は目を見開いた。
 正確に言えば雅沙羅は死んでるんだけど、生きている人間と見分けがつかないんだからこの子は気にしないだろう。どうせ差など分かるまい。
「江戸に、いや、今は東京って言うんだったかい? あっちに向かったよ。そんなに諒闇雅沙羅を探してるっていうんならあんたも行ってご覧。きっと会えるから」
 ぱぁっと顔を輝かせて大きく一つ頷いた桜に、あたしは方角を示してやる。彼女は急ぎ足で去って行った。怪訝な表情を大男を残して。
「あんたは雅沙羅のことを知ってるのかい?」
 彼は一つ頷いた。
「なら話が早い。あの子、江戸で桜って言うさっきの子と合流するつもりらしい。なんでって顔してるね。あの二人がどんな関係だったか知らないけど、雅沙羅は桜に対して責任を感じてて、せめて桜が幸せになるまでは見守りたいってことらしいよ」
 大男は沈痛な面持ちで何かを考え込んでいるようだった。どこか納得しながらも、どこか納得できずにいるような、そんな表情だ。彼は恐らく、雅沙羅の決断の裏にある事情を分かっている。
「あんたはもう幽霊だ。前面に立ってあの子たちを守ってやることはできない。ならせめて応援してやりなよ、あの子たちの選択を。まだ二人とも、子供じゃないか」
 分かった、と言うように彼は再び頷いた。
「大丈夫だよ、あの子たちはあんなにも守られてる」
 一瞬ぽかんとした顔を見せた大男だったが、意味が分かったのかその表情を和らげた。
『雅沙羅だもんな』
 そんな彼の声を聞いたような、気がする。



 どうかあの二人に、良き未来を。



Eternal Life
月影草