初めて会ったあの日。彼女がすっと向けてきた視線が忘れられない。



花王の色も



「……あの。その、最近元気がないみたいだと……何かありました? 桜、きれいですよ?」
 - - の着替えを手伝いながら俯き加減にぼそぼそと告げる灯を、彼はまじまじと見つめた。突然桜の話になる辺り文脈がおかしな気もするが、それも彼のことを気遣っているのであろう。
 それとも彼女は気付いているのだろうかと、- - は思う。桜の時期だからこそ、彼の元気がないことに。
「ありがとう。でも、あんまりそんな気分じゃないかな」
 彼らが今いる部屋のすぐ外には桜が植えてある。襖を開けさえすれば、淡い紅色に咲き誇った桜が見られる筈だ。しかし、だからこそ、彼はあえて襖を閉めっぱなしにしていた。
「そう、ですか……」
 残念そうな灯の声が、がらんとした広い部屋の中に響いた。

 桜の時期になると、忘れられない人がいる。
 否、- - にとっては片時も忘れられない人なのだが、桜の時期になると居ても立っても居られないくらい無性に会いたくなる人がいる。それは恐らく、初めて会ったのが丁度桜の咲く頃だったからだろう。
 皇太子だから、というただそれだけで誰も視線を合わせようとしなかった- - に、躊躇うことなく合わせられた真っ直ぐな視線。そして彼女の笑顔は、咲き誇る桜の狂い咲く桜すらも色褪せさせる程だった。
 神武家の顔合わせで彼女と初めて会ったのは、一年と少し前のことになる。

 あの日から気が付けば、- - が考えているのは彼女のことばかりだった。
 桜を夢見草と呼ぶこともあるが、- - にとっては雅沙羅と会った僅かばかりの時間が夢のようで、昨年の春などは桜が彼女を思い起こさせるために宮の中で大人しくしていることなどできず、お忍びで彼女の住む村まで灯を連れて遊びに行ったのだ。
 「京から南の方にある神社から来た」という手掛かりだけで会いに行こうとしたのはさすがに無謀だったと、今の- - は思う。途中で二人は完全に迷子になってしまったからだ。
 しかし、そこに彼女は現れた。
 まるで- - が来ていることなどお見通しだったかのように。初めて会ったときと同じ笑顔を、彼に向けて。

 状況が去年と同じであれば、今年も- - はきっと同じことをしただろう。昨年の一件で道は分かっている。薄紅に咲き乱れる桜に思い起こされる彼女を求め、灯を連れて彼女の神社まで行くこと自体は難しくない。
 だが、昨年のお忍びは- - の想像を超えた大事になってしまった為に、今年は何人もの人を「護衛」と称してつけられてしまい、最早宮から出ることも叶わないと諦めていた。監視の目がもう少し緩ければ、今すぐにでも飛び出して彼女に会いに行ったことだろう。
「いえ……ですが、今日は外に出て良いと」
「え?」
 灯の言葉に、- - は耳を疑った。- - が脱走する機会を減らす為にも、宮からは出さない方針になっていたはずで、それは宮中にいる誰もに、徹底的に伝えられたはずだ。
 彼の戸惑いが伝わったのだろう、小首を傾げて考え込んだ灯は、ぽんと両手を打つ。
「そう、今日はお客様が来られるって!」
「お客様をお連れしました」
 灯が言うが早いか、廊下からかけられた声と共に襖が静かに開かれる。
 この部屋に通されるということは、- - に会いにきた人が居るということだ。そんな人がいることにも彼は驚いたが、女中に通されて入ってきた人物を見て、彼は目を見開いた。
 部屋に入ってきたその人物は、深々と頭を下げる。
「ご無沙汰しております、- - 様。ご用意は整ってあられますでしょうか?」
「雅沙羅! どうしてここに?」
 雅沙羅が来たというだけで今にも飛び上がりそうだというのに彼女ににこりと微笑まれ、- - は心臓を鷲掴みにされるようだった。良く覚えているどころか、彼にとって忘れることのできない、あの笑みだ。
「今年は是非、こちらの桜をご一緒にと思いまして。灯殿も、よろしければご一緒しませんか?」
「え? あ、は、はい!」
 当然、彼女は彼だけを誘って外に行き、自分はこの部屋に残るものだと思い込んでいた灯は目を瞬かせると、数瞬後に裏返った声で返事をした。

 宮の近くには、数カ所の桜の名所がある。三人が行ったのは、宮から歩いていける距離の場所だった。
 満開の桜の間をのんびりと歩きながら、雅沙羅には桜がよく似合うと、薄紅色に咲き誇る花を見上げる彼女を盗み見ながら- - は思う。
 彼がちらちらと彼女の様子をうかがっていれば、視線に気付いたのか彼女が振り向いて、彼は慌てて眼を逸らした。しかし、顔が熱くなっているのだから恐らく彼女にはばれてしまっているだろう――そう思うと更に恥ずかしくなって、- - の顔は火照りを増すようだった。
 眼を逸らした- - の視界に入った灯は灯で落ち着かないらしく、しきりに周囲を見回していた。
「こちらは本数が多くて、やはり見応えがありますね」
 一人落ち着いている雅沙羅は、にっこりと笑ってそんなことを言う。
「え? あぁ、うん、そうだね」
「は、はい」
 桜をあまりちゃんと見ていなかった- - と灯の二人は、慌てて見上げると、こくこくと数度頷いた。そんな、緊張してあたふたした様子の二人に、雅沙羅も苦笑する。
「お二人ともどうされました? やはり突然お邪魔したから……」
「そんなことないからっ!」
 思わず出てしまった大きな声に、- - は手で口を塞いだ。雅沙羅を直視することもできずに視線を彷徨わせながら、言い訳するように続ける。
「でもその……突然、どうしたのかなって……」
 小さく呟いた彼は、思いついた一つの可能性に、さっと顔色を変えた。
 もしかすると、用事があったのは雅沙羅ではなく、雅沙羅の師である神武音桐であったのかもしれない。もし音桐の用事でこのように突然現れたのであれば、それは緊急を要する筈だ。
 例えば――この国の有事だとか。
「- - 様?」
「大丈夫ですか?」
 そういえば、音桐は時折予知夢を見ると聞かされなかっただろうか。ならば彼女が良くない夢でも見たのではないか。考えれば考える程に悪い方向へと向かっていく思考に顔を青白くした- - は、二人の少女に顔を覗き込まれると精一杯の笑みを浮かべた。
「大丈夫……だけど雅沙羅、一つだけ答えてもらっていい? 今日、宮に用事があったのは、誰?」
 - - と一緒になって灯も雅沙羅を見つめる中、彼女は意図を読み取ったらしく、血の気の戻らない彼と向き直るように膝をつき、彼を見上げた。
 雅沙羅の、彼の不安まで包み込むような、真っ直ぐな視線。
 あぁ、そうだ。と- - は思う。彼女がいると安心するから、だから惹かれたのだと。
 一昨年のあの日から顔立ちは少し大人びたが、全てを受け止めるその眼差しは変わらない。
 彼女は微笑むと、口を開く。
「本日は私、清舞雅沙羅が、- - 様と灯殿と一緒にこうして桜を見る為に参りました。師である神武音桐は同伴したに過ぎませんが、あちらも宮の春を楽しまれているのではないでしょうか」
「なんだ……」
 安堵する- - の言葉をそっと制し、彼女は続ける。
「それと、もう一つ」
 花見に来た、との雅沙羅の回答に一瞬明るくなった彼の表情が再び曇り、彼女も困ったような笑みで「……ほら」と呟いた。
「- - 様はいつも不安そうなお顔をされてありますよね。私でよろしければ、仕えさせていただけないでしょうか」
 下からひたと見上げてくる雅沙羅を前にし、- - は唖然とする。一歩下がって成り行きを見守っていた灯も、ぽかんと口を開けていた。
 神武家は選定の家だと、- - は聞いている。
 今、雅沙羅は清舞姓を名乗ったが、彼女はいずれ神武の跡取りとなる。その彼女が「仕える」と言うならば、彼は認められたということだ。
「確かにまだ神武の名を継いでいませんので正式な儀式は数年待たなければなりませんが……それでも、私は今、- - 様にお伝えしたかったのです。あなたが許されるのならば、私はあなたにお仕えします」
 高鳴る鼓動を聴きながら、伸ばされた手に、彼はそっと、自らの震える手を重ねた。軽く握られると彼女の手の温かさを、同時の自身の手の冷たさをはっきりと感じた。
 嬉しい筈だというのにどこか混乱する頭で、- - は雅沙羅を見、灯を見た。灯は嬉しそうな笑顔で、こくりと一つ頷く。
 気持ちが着いていかないまま雅沙羅に視線を戻した時に、彼は理解した。雅沙羅が灯を連れてきたのは、ただ一緒に花見をしたかっただけではない。灯は、証人として同伴されたのだと。
 - - の視線が雅沙羅に戻ると、彼女は告げる。
「この身が、朽ち果てるまで」
 一陣の風に、薄紅色の花びらが舞う。
 握られた手を握り返し、- - は応える。彼女が、儚く消え去ってしまうその前に。
「よろしくお願いします」



Eternal Life
月影草